有機体の哲学の成立

有機体の哲学の成立

『科学と近代世界』には、異なる時期に書かれた4つの層があることを、前のページで書きました。特に、ローウェル講義(およびそれと内容的に連続する講義)をもとにした箇所と、『科学と近代世界』出版時に加筆された箇所には、本質的な発展があると考えられています。フォードは、その発展を、1.「時間的原子性」、2.「汎主体主義」、3.「有神論」によって特徴づけています。

科学的唯物論から「有機体の哲学」へ
『科学と近代世界』のうち、ローウェル講義をもとにした諸章では、近代科学の着実な勝利によって唯物論的で機械論的な自然観が支配的なものとなっていく思想史が跡づけられています。ホワイトヘッドは、物質が決められた経路を運動するという思想の決定的な起源を、モーペルテュイ(1698-1759年)が「最小作用の原理」を着想したことに見出します。「最小作用の原理」は、のちにラグランジュやハミルトンらによって数学的に形式化されて解析力学の基礎となった原理であり、今日、物理学の基本方程式の一つである正準方程式などで想定されている原理です。ホワイトヘッドによれば、モーペルテュイが生きた時代には、彼が生まれる前の神学的時代の色合いが残っており、彼は、「任意の時間内における質点の経路全体は神の摂理に値する完全性を達成していなければならないという観念」から出発しました。このような観念が、始点と終点さえ決まれば質点が通る経路全体が決まってしまうという「最小作用の原理」に結びつき、さらにこの原理がラグランジュによって「仮想仕事の原理」としてより一般的な観点から定式化されていったというのです。この原理にしたがえば、物質は決められた経路を運動すると考えられます。
ホワイトヘッドはこうした唯物論的機械論を全面的に否定しているわけではありません。むしろ自然が秩序によって支配されているということへの信念なしには科学は成立しえないというのが彼の基本姿勢でしたし、「有機体の哲学」は有機体論が抽象されて機械論も説明されると考える点で機械論を包摂します。
ただ、近代科学、および唯物論的機械論をホワイトヘッドが非難するのは、他の存在との連関を欠いた物質が、あるとき・ある場所に「単に位置を占めること」を前提することによって、それぞれの存在が何であるかという意味を捨象してしまったがためです。そしてまた、そうした物質が自然法則にしたがって盲目的に運動すると想定することによって、他の存在や全体と連関する合目的性や価値を自然から捨象してしまったがためです。
中期自然哲学のページで解説したように、唯物論的機械論に対して「有機体の哲学」は部分と全体が本質的に不可分であると説きます。出来事は、それ自身の内的実在性においては、パターン化された諸相をそれ自身のうちに映す一方で、外的実在性においては、存続する個体というかたちで他の諸出来事のうちに映されます。今・ここに実現される個々の出来事は単なる諸部分の集合ではなく時空統一体としての有機的な統一体であり、ある存在が何であるかはその環境によって修正されるのを免れません。環境はそれぞれの個体的出来事に影響を与えるのであり、逆に個体的出来事は存続するパターンという仕方によって環境のうちに反復されます。ローウェル講義において分割不可能で個体的なのは、個体化された様態としての出来事であり、それは「存続する個体的存在」とも呼ばれています。存続する個体として内的実在性をもつ出来事は自らの歴史的経路や経歴(life history)を保持し、自らの過去や環境に由来する諸相によって部分的に形成されています。
では、こうした有機体論の起源はどこに見出されるのでしょうか。有機体論成立の背景としてまず思い当たるのは、ホワイトヘッドが愛好していたロマン主義の影響でしょう。ローウェル講義でホワイトヘッドは、世界観の変動を例証するものとして文学、特にイギリスの文学を取り上げ、18世紀末から19世紀前半にかけて起きたロマン主義のうちに、唯物論的機械論の自然観に対する反動を見てとります。ホワイトヘッドによれば、近代科学の影響をまだ被っていなかったミルトン(1608-1674年)は神に訴えることによって世界が摂理に支配されていることを詠い、近代科学が確実に勝利しつつあった時代を生きたポープ(1688-1744年)は近代科学の方法に訴えて「大いなる迷路」の地図となる「定まった道」を詠っていました。しかし、ミルトンやポープに対してワーズワース(1770-1850年)やシェリー(1792-1822年)といったロマン主義の詩人たちは、直接経験に訴えて近代の唯物論的機械論を非難しました。「シェリーもワーズワースも、自然はその美的価値から引き離しえないこと、またそれらの価値は、ある意味で、圧倒させる全体の現前がその様々な諸部分を覆い包むことから生じるということを力強く証言している」。ワーズワースの「発想の転換をこそ」にある「我々は分析するために殺す」という詩句が端的に表現しているように、18世紀の科学は自然を抽象的に分析することによって自然から価値を排除しましたが、「ロマン主義復興期の自然詩とは有機的自然観のための抗議であり、かつまた事実の本質から価値を排除することへの抗議でもあった」。特にワーズワースは、一つの個体のうちにそれを取り巻く諸事物が現前していることを詠い、常に「特殊な事例の色調に含まれた自然の全体相」を把握していたといいます。
こうした思想史理解がホワイトヘッドの有機体論成立の大きな要因であったことは間違いないでしょう。18世紀末から19世紀前半にかけてのロマン主義の運動に、究極的な実在を物質とみる科学的唯物論に対する反動という側面があったことは思想史の事実であり 、唯物論的機械論を批判する思想史的な論拠にも適っています。
しかし、ロマン主義は、「有機体の哲学」成立の起源たりえているでしょうか。T. S. エリオットは、ロマン主義にかぎらず、特定の時代の詩あるいは詩人の経験を、哲学の根拠にすることを痛烈に批判していますし、ホワイトヘッドの哲学的立場には、ロマン主義の思想とは微妙に異なる点があります。むしろ、ホワイトヘッドは、自身の有機体論の着想は、数学や数学的物理学の研究から到達されたと話しています。

「上述のように心理学や生理学からの代わりに、現代物理学の基本的諸概念から出発しても、同じく、このような有機体的な世界の枠組みに到達することができる。事実、私自身、数学や数学的物理学を研究したために、このように私の信念に現に到達したのである。」

数学や数学的物理学の研究とは、もちろん、中期の自然科学の哲学を指しており、中期自然哲学における有機体論の萌芽は、前のページで確認しました。中期ホワイトヘッド哲学では、出来事が無限に分割可能であると考えられる一方で、リズムや生命は、非一様な客体として、分割不可能な統一としての個体だと考えられていたのです。
『科学と近代世界』の出来事という概念は、中期哲学における無限に分割可能な出来事というよりも、むしろ生命やリズムとしての有機体だと考えられます。生ける有機体はその生命やリズムを破壊することなく諸部分に分割することはできないのであって、個々の現実的な出来事は統一的な全体として実現されます。それは、パターンの反復によって存続する自己同一性を保持しながら、個体的で統一的な存在として実現されるのです。
しかも、その実現は、差異化されていない同一的なパターンの単なる反復ではなく、差異性も孕んだ一つの価値実現に他なりません。出来事は、自らのうちに美的コントラストの反復を含むことによって差異性と同一性を統合し、自己目的的に実現する有機体なのです。

「パターンは本来、それが展開されるための時間的な幅を要する美的コントラストの一つであるかもしれない。音の調はそのようなパターンの一例である。こうしてパターンの存続は今や、コントラストが継起し反復されることを意味する。」

「永遠的客体」については用語解説を参照 中期哲学では、客体がその状況である出来事に進入すると考えられていただけでしたが、『科学と近代世界』(ローウェル講義の諸章)では、個体的な出来事が、その内的実在性のうちに過去の出来事と永遠的客体を融合して、時空統一体として価値実現すると考えられます。1900年代初頭から1930年頃にかけては永遠的なプラトン的形相と、時間のうちにあるパターンの反復や存続とを説明する試みが特に実在論者たちの思潮となっており 、ローウェル講義のホワイトヘッドも、客体を、非時間的である「永遠的客体(eternal object)」と、パターンの反復によって時間のうちに存続する「存続する客体(enduring object)」に明確に区別しています。その際、ホワイトヘッドは、永遠的客体がそれ自体で存在することを否定しながらも、個体的な出来事は、「自然が必要としており、しかも自然から生じてこない色や音、匂い、幾何学的性格といった永遠的客体の諸相」を構成成分として含み自己実現すると論じ、現実こそが価値であると説くのです。

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