『宗教的経験の諸相』

『宗教的経験の諸相』
The Varieties of Religious Experience. A Study in Human Nature. Being The Gifford Lectures on Natural Religion Delivered at Edinburgh in 1901-1902. (出版は1902)
邦訳: ウィリアム・ジェイムズ 『宗教的経験の諸相』(上)、舛田啓三郎訳、岩波文庫、1969年。
ウィリアム・ジェイムズ 『宗教的経験の諸相』(下)、舛田啓三郎訳、岩波文庫、1970年。
ウィリアム・ジェイムズ著作集3、4 『宗教的経験の諸相(上)(下)』、桝田啓三郎訳、日本教文社、1962年。

『宗教的経験の諸相―人間性の研究―』
上巻
目次

第1講 宗教と神経学
第2講 主題の範囲
第3講 見えない者の実在
第4・5講 健全な心の宗教
第6・7講 病める魂
第8講 分裂した自己とその統合の過程
第9講 回心
第10講 回心―結び

下巻
第11・12・13講 聖徳
第14・15講 聖徳の価値
第16・17講 神秘主義
第18講 哲学
第19講 その他の特徴
第20講 結論
後記

上巻
目次

エディンバラ大学における自然宗教におけるギフォード講座。二課程からなる。「人間の宗教的欲求」に関する記述的なものと、「哲学による宗教的欲求の満足」に関する形而上学的なもの。しかし、心理学的問題が長くなってしまい、第二の主題はまたの機会に。したがって、人間の宗教的素質に関する記述のみ。第20構は、「私自身の哲学的結論を述べた、というよりも、むしろ示唆しておいた」。いつかもっとはっきりした形で私の結論を述べたい。抽象的な公式よりも特殊な事実に広くなじむ。具体的な実例を、宗教的気質の極端に表現されたもののなかから選んできた。読者めいめいに、思いどおりの穏健な結論を引き出されるよう、お任せしている。1902年3月、ハーバード大学にて。

第1講 宗教と神経学

“15. 私が精通している学問の部門は、神学でも宗教史でも人類学でもなく、ただ心理学だけ。宗教的性向、宗教的傾向の事実を述べる。心理学的研究は、宗教制度ではなく、宗教的感情、宗教的衝動を扱う。自己意識をもった人々の書いた文書、信仰告白書、自叙伝、主観的現象。十分に進化し完成した諸形態に注目する。宗教的生活を完成し、自分の観念や動機を説明できる人々の文書。宗教的古典。
16. 宗教的性向とは?と、宗教的性向の哲学的意義は何か?は、別の問題。論理学:①その本性は何か?いかにして生起したのか?構造、起源、歴史は?②価値、意味、意義は?前者は存在判断、存在命題。後者は価値命題、価値判断、精神的判断。
17-18. 宗教。①宗教的現象、歴史、自然的な現象。聖書、歴史的事実。②人生の指針、啓示という目的に適うだけの価値を与える特質は何か?精神的判断と存在判断を結び付けて聖書の価値の別の精神的判断を演繹。聖書は、作者の気まぐれではなく、科学的にも史実的にも誤謬を含んでいてはならないとしたら、ひどい目にあう(cf. Whは科学にもとづいていることへの信頼は既に信仰的で価値を減ずる)。つまり、「存在の事実だけでは価値を決定するには十分でないのである。」存在の問題と精神の問題を混同しない。事実の結論は同じでも、価値の根拠はめいめいの精神的判断が異なっているから、啓示としての聖書の価値も、人それぞれが見解を異にする。”
19―23. この二つを区別した上で、「純粋に存在の見地に立つ」。宗教的経験の諸現象を、個人の経歴のうちの奇妙な事実に過ぎないかのように、生物学的にかつ心理学的に扱うとき価値、人生の宗教的な側面を貶めると考えるかもしれない。そうではない。宗教的生活は、奇人や変人にしてしまいがち。実際、宗教的天才たちは、感受性が強く、高ぶりやすい感情をもつ人間であり、宗教の指導的人物たちは、異常な心理の発作に襲われやすい素質をもっていた。調和を欠いた内的生活をおくったり、憂うつに陥ったり、恍惚状態に陥って、声なき声を聴いたり、影なき影を見たりなどして、ふつう病理的なものの部類に入れられる異常な特徴を示している(20)。だが、そうではない。「畏敬の念をよびさますような対象は、・・・独自なものでなければならぬような感じを、私たちにも抱かせる。」
24. 霊魂の不滅を信じるのは、彼の気質がそのように感動しやすいからだとか、憂うつな宇宙観は消化不良のせいだとか、もっと戸外に出て運動でもしたら魂の問題などにあんなに思い悩むこともなくなるだろうに、などという批評がある(プラグマでは気質の問題にひきつけているが、宗教はそういうことではないと本書では言っている)。こうした態度を「医学的唯物論」をジェイムズはいう。例えばパウロがてんかん病患者であり、ダマスコへの途上でキリストの幻影を見たのは、大脳皮質後頭葉の放電障害のせいだといって片づける類い。(28)
29. 当時の心理学は精神と身体との間には一定の関係があるとみなし、精神状態は身体的条件に左右されているという考えを便利な仮説として認める。医学的唯物論も大体真実。しかし、「精神史上の事実をこのように存在という観念から説明することで、その事実のもつ精神的意義をいったいどうして決定できるのか」(30)。この考えでは、臓器を移植すれば、メソジスト派型の精神が生じたり、無神論者型の精神が生じることになる。
31―33. 医学的唯物論には、「みずから好ましいと思うそのような精神状態がいかにして生じるかを説く生理学理論がない」。しかしそれがあってこそ精神状態の価値を認められる。「ある精神状態が他の精神状態よりも優れていると考えられる場合、」身体上の先行条件に知識にもとづいてのことなのか。そうではない。それは、そのような精神状態に直接の喜びを感じるからであるか、そのような精神状態が将来の生活によき成果をもたらしてくれると信じているからである。ある思想に善の刻印を押すのは、その思想に含まれる内的幸福という性質か、あるいは、他の意見と一致して私たちの要求に役立つこと。後者の性質がその思想を真理として通用せしめるもの(方法論:プラグマティズム)。この規準において、、内在的な規準と外面的な規準は必ずしも合致しない。内面的幸福と、役に立つこと。「善い」と直接に感じられることも、「真」とは限らない。「善いと感ずる」だけなら、酔うのがいい。しかし、持続しない。情緒的で神秘的な経験は、内的な権威と照明の異常な感じを伴う。稀にしか訪れないし、誰にでも訪れない。後の生活が無関係のこともあれば、矛盾することもある。従うものもあれば普通に従うものもある。(33)
33―36 天才の病理学的原理。モロー博士:「天才は神経症という木に生える多くの枝のうちの一枝にすぎない」。天才の業績は病気の果実。それは結構だが、「その説をどこまで貫き、彼らはこの果実の価値を非難することに向かわれるであろうか」云々。そうではない。自然科学とか工業技術の場合なら、神経病的体質をあばき出して、反駁しようとはしない。論理と実験によって吟味されるから。宗教的意見もそうでなければならないはず。宗教的意見の価値は、精神的判断によって確定されうる。1.直接的な感情にもとづき、2.宗教的意見と、道徳的要求、他の知識との経験的関係にもとづく判断によって確定されうる(方法論)。直接の明白性、哲学的合理性、道徳的有用性が、有効な規準。聖テレサは柔和な牝牛のような神経組織をもっていたかはともかく、テストにかけて神学を救わないか、別のテストに耐えうるものであれば、どんなに平衡を失っていようとも、問題にならない。(36)
36―38 経験論哲学が真理の探究として主張してきた一般的原理に連れ戻される。独断論の哲学は、真理の起源が規準であり、テストだった。直覚、教皇権、幻視幻聴、超自然的啓示という起源、言葉といった起源が、真理性の保証であった。医学的唯物論も独断論者に過ぎず、起源という規準。モーズリー博士:起源を根拠として超自然的宗教を反駁する人。しかし信仰のテストとするものは、信仰の起源ではなく、信仰が全体に働きをおよぼすその仕方であるといわざるをえなかった。(38)幻影、神託、恍惚境、感激、奇蹟、体験、いかなる外観も恩寵の確かな証明とはならない(起源としてみる限り)。「私たちの実行のみが…真のキリスト者であることの唯一の確かな証拠なのである」。病的起源はもはや宗教心を侮辱しないだろう。
40-41 それにしても、結果(効果?)が精神的評価の基礎ならば、なぜ宗教的現象の条件に関する存在的な研究などを気にするのか?なぜ病理学的な問題など無視してはいけないのか?1.好奇心がそう命ずるから。2.意義は、誇張されたり倒錯されたもの、等価物や代用品を考察すると、よく理解されるから。対照させて長所を突きとめる。病的状態も長所があり、取り巻くものをとり除いて、解剖刀と顕微鏡の役割を、精神の解剖に果たす。幻覚の研究が、正常な感覚の理解になり、幻想の研究が知覚を理解する鍵になる等々。(41)優秀な知力と精神病的気質、天才。(42-43)
43―45 宗教的ゆううつ、宗教的信仰の達成がもたらす幸福、真理を洞察しえたときの恍惚状態、これらを、宗教的でないゆううつ、幸福、恍惚の諸相と比較する方が、自然の秩序の外にあるかのように扱うよりも、それらの特殊な意義を見きわめられるだろう。精神病的気質は、道徳的実行力の本質たる、あることを特に強調する熱情と傾向があり、形而上学と神秘主義を愛する心があり、感覚的世界の表面を超えたかなたへと、人の関心を運んでいく。宗教的真理の領域や宇宙の秘境へと導いてくれる。天来の霊感があるとすれば、神経病的気質こそそれを感受するのに必要な主要条件であろう。
“科学や事実に基づく?これも信仰。価値や宗教的側面を減ずる。人それぞれが見解を異にする。→価値や宗教的側面、精神的判断も含めた整合的説明?
世界を整合的に説明する?そもそも整合的にできているのか?カルトと正当の区別の基準?
デザインの基準
形而上学は、人間にとっての現実の総体をその根源的な在り方において、すなわちまさに存在するものとして、人間認識に可能な限り厳密な仕方で捉えようとする試みである。「存在とは何か」という問いは、人間の知への欲求において最も普遍的であり、また最も根源的な問いに他ならない。形而上学的問題設定は、それが批判的に扱われる場合にも哲学史の中心的潮流そのものであり続けてきた。本講義では、哲学史における展開を批判的に考慮しつつ、存在をめぐる根本的諸問題の体系的解明を目的とする基礎存在論の提示を試みる。形而上学概念の歴史と学としての定義、学問性、およびその成立可能性についての予備考察の後、存在の基本的性格の解明が試みられる。この解明は、認識と存在の関係についての問いを出発点とし、存在理解の可能性とその内実を探求することを通して、存在の根源的諸特質を開示することになる。”

第2講 主題の範囲

46―48 宗教哲学は一般に、宗教の本質をなすものは何かの定義。ジェイムズ:「宗教」という言葉は一つの集合名詞(47)。「宗教的情緒」という言葉も「宗教的対象がこもごも呼び起こす多くの情緒を表す集合名詞」ともいえる。宗教的恐怖、愛、畏怖、歓喜などがあるが、例えば宗教的愛は、人間に生来の愛の感情が宗教的対象に向けられたものに過ぎず、通常の恐怖、愛、畏怖、歓喜などの対象が宗教的な対象であるに過ぎない。宗教的感情は、一つの感情に一つの特殊な対象が加わってできあがる具体的な精神状態なのであるから、他の具体的な感情とは区別される心的状態であるが、単一の抽象的な「宗教的感情」というものが存在するわけではない。(48)基本的な宗教的感情など存在せず、特殊な本来の宗教的対象というようなものも、特殊な本来の宗教的行為というようなものも存在しない。
49―51 主題の範囲:宗教を制度的宗教と個人的宗教に二分した上で、個人的宗教に限定する。宗教を個人的なものとみなす一派にあっては、関心の中心をなすものは、「人間そのものの内的なもろもろの性向、すなわち、人間の良心、人間の受けるべき報い、人間の無力さ、人間の不完全さ」である。個人的宗教は、まだ組織化されていない宗教のきざしでしかなく、人間の良心あるいは道徳とでも呼んだ方がよく、宗教という一般的名称をになうにはあまりにも不完全なものだと思う人があるかもしれないが、ジェイムズは、個人的宗教は純然たる道徳の含まない諸要素を含んでいると述べる。その要素は後述。少なくとも個人的宗教が、神学や教会制度よりも、根本的なのは、教会の開祖が、その力を最初は神との直接の個人的な交わりという事実から得たということである。(51)
52―56 「宗教とは、個々の人間が孤独の状態にあって、いかなるものであれ神的な存在と考えられるものと自分が関係していることを悟る場合だけに生ずる感情、行為、経験である」。直接の個人的経験。エマソンの例。
57―58 人間の宗教とは…彼が根源的真理だと感じるものに対してとるその態度と同じものと見なすこともできるであろう。「宗教とは、いかなる宗教であれ、人生に対する人間の全体的反応である。」「この全体的反応、全体的態度を得るためには、諸君は存在の前景の背後に立ち入り、永遠に現存する不可解な宇宙全体について、あのふしぎな感じを覚えるところまで達しなければならない。そのような感じは、・・・恐ろしく感じられることも快く思われることもあろうし…いずれにしても、或る程度には誰でもがもっている感じなのである」。世界の現存についてのこのような感じは、私たちの特殊な個人的気質に訴えて…高揚させたりする。それに対する私たちの反応は、なかば無意識的におこなわれるが、この反応こそ「われわれの住んでいるこの宇宙の性格は何か」という疑問に対する私たちのあらゆる答えの中でもっとも完全な答えである。宇宙について個人的な感じをもっとも明確に表す。
59―63 しかし、何でも宗教というわけではない。例えば、「ぼくなどは、弱い人間であるが、それでも、最後の瞬間まで戦いをつづけたい」というヴォルテールの態度は、人生全体に対するヴォルテールの反応であるが、病弱な人間における、このような…年をとったしゃものような精神は、讃嘆してもよいが、宗教的精神と呼んでは、奇妙なことになろうという。(59)ジェイムズは、「宗教」とは、つねに「厳粛な精神状態」を意味しているという。「宗教は厳粛を好み、厚顔を好まない。あらゆる空しい饒舌や辛辣な機知に向かって宗教は「黙れ」というのである」。「私たちが宗教的と呼ぶ態度には、すべて、厳粛さ、真剣さ、柔和さといったものが伴っていなければならない。喜びが、苦笑いや忍び笑いであってはならない。悲しみが、絶叫やのろいであってはならない。…宗教的経験は、まさしく厳粛な経験なのである」。(63)「個人が、・・・厳粛で荘重な態度で、応答せずにはいられないような根源的な実在という意味においてのみ神を用いることにしたい」。(63)宗教的の境界は曖昧、量と程度の問題。
64 ジェイムズが扱う宗教の範囲は、「わずかにお世辞でやっと宗教的と呼ばれることができるような精神状態などに、私たちはかかわりあう必要はない。私たちが研究して有益なのは、誰もが宗教的としか呼びようがないと感じるものだけである。」個人的宗教は、神学や儀式を伴わなくとも、純然たる道徳のもたないいくつかの要素を包含しているといったが、このようなかなり極端な場合のことである。(66)
67 道徳と宗教とが関心をかたむけるのは、私たちが宇宙を受け容れるその仕方なのである。しかし純然たる道徳は、宇宙の法則を容認しているものの、たいへん重くる冷ややかな心をもってその法則に服従しており、その法則をたえずクビキのごとく感じているようである。ところが、宗教の場合はその表現が強烈で、神への奉仕は、けっしてクビキとは感じられない。いやいやながらの服従は遠くに置き去られ、それに代わって、歓び迎えるという気分が生ずる。
73 一つの器官の意味を研究する場合に、その器官の機能のうち、他の器官が果たしえないと思われる一つの機能をその器官の役目と見なすというのは、生理学で用いられているすぐれた規則であり、この同じ原則が適用できる。「宗教的経験の本質、すなわち、私たちが宗教的経験を判断する場合の究極の根拠となるものは、他のいかなる経験においても出会うことのできないような、宗教的経験のうちにあるその要素、あるいは性質でなければならない。」
75―76 無力そのものが慰められること、弱くて欠点だらけだが、宇宙の精神は自分を認め守っていてくれると感じること。善行well-doing、善き存在(安心立命境)well-being。道徳では不十分。宗教的人間の精神状態にあっては、自己を主張し、自己の立場を貫き通そうとする意志は押しのけられて、すすんでおのが口を閉ざし、おのれをむなしくして神の洪水や竜巻のなかに没しようする心がまえが、それにとって代わっているのである。この精神状態にあっては、安楽、道徳の死滅、霊の誕生日、魂の緊張からの解放、幸福なくつろぎ、深呼吸、不安を知らない永遠の現在。道徳とは異なり、宗教は、恐怖は中絶されるのではなく、積極的に拭いとられ、洗い流される。宗教は、合理的あるいは論理的に他の何ものからも演繹できない魅力を人生にそえるものである。この魅力は、一つの賜物として私たちに与えられるのであるが、・・・授かる者もいれば授からぬ者もいる。(76)
77 法悦感を欠いた宗教生活をしている人や、生まれつき陰うつな気分をもつ人がいる。そういう人々も広い意味では宗教的ではあるが、厳格な意味では宗教的ではないという。ジェイムズが研究しようとしているのは、厳格な意味での宗教である。絶対的なもの、永遠なるものにおいて感じられるこの種の幸福。
79 普通幸福といわれるものは、災厄から逃れえたことから生じる「安心感」だが、宗教的幸福は、単なる逃避の感情ではない。宗教的幸福はもはや逃避など望まない。宗教的幸福は、外面的には、犠牲の一形式として災厄を認めはするが、内面的には、災厄が永遠に克服されていることを知っている。なぜかはわからない。
80 この世界は悪魔がいるからこそ、かえっておもしろい。宗教的意識も同じ。否定的あるいは悲劇的原理である悪魔。
82 宗教は、私たちの本性の他の部分ではそれほどうまく果たせない一つの機能を果たしてくれる。純粋に経験的な方法に従っても、結論に達する。形而上的啓示としてみれば、宗教にはそれ以上の職務があるが、今は触れない。具体的な事実へ。

第3講 見えない者の実在
84 宗教生活は、見えない秩序が存在しているという信仰、最高善はこの秩序に私たちが調和し順応するにあるという信仰から成り立つ。この信仰とこの順応は魂の宗教的態度である。私たちの態度は、道徳的、実際的、感情的であれ、宗教的態度と同じく、意識の「対象」、つまり、実在的にせよ観念的にせよ、私たち自身とならんで存在していると信じられる事物、に起因する。対象は感覚に映るものかもしれないし、思想に思い浮かぶだけのものかもしれない。いずれにせよ、対象は私たちから反応を引き出す。しかも、思想に思い浮かぶ事物に起因する反応は、感覚にあらわれるものに起因する反応と同じ強さ。むしろ前者の方が強いかも。宗教の対象である具体的な存在、神々は、観念としてのみ知られているに過ぎない。例えば、救世主の姿を感覚的に見たということは、ごく少数のキリスト教信者にしか許されないことであった。抽象的対象、神の属性、聖性、云々。(85)カント、信仰の対象、知識の対象ではない。実践における意味。かのように行為する、感じる。実践的観点。
87 実在の情緒は、事実において、私たちの信仰の対象に強く結びつくので、生活全体が、信仰の対象となる事物の存在に対する感じのもち方によって、偏る。信仰の対象となる事物がはっきり記述できるように心にあらわれるとは主張できない。鉄の棒と磁気のように。具体的対象の全宇宙は、高い抽象的観念の宇宙のなかを浮遊しているのであって、この観念の世界が現象界に意義を与えている。時間、空間、エーテルがあらゆる事物に浸透しているように、抽象的で本質的な善、美、強さ、意義、正義なども、あらゆる善いもの、強いもの、意義あるもの、正しいものに浸透している(ことを感じる)。抽象的観念のどれか一つの本性を分有することによって、そのものとなる。(89)これらは、身体も形も足もないから直接に見れない。手段にして、事物を把握する。それらがなければ実在の世界を扱えない。
89 精神が抽象観念によって絶対的に規定されうることは、人間の本質の根本的な事実の一つである。具体的な事物であるかのように、背を向けたり追いかけたり讃美したりする。実在的な存在であり、感覚的事物が空間の世界において実在的であるのと同じ。プラトンは、この感じを弁護した。イデア論。抽象的な美は個的な存在。滅び行く美しいものに付加される或るものだと考えている。

第4・5講 健全な心の宗教
第6・7講 病める魂
第8講 分裂した自己とその統合の過程
第9講 回心
第10講 回心―結び

下巻
第11・12・13講 聖徳
第14・15講 聖徳の価値
第16・17講 神秘主義
第18講 哲学
第19講 その他の特徴
第20講 結論
338 経験的方法を弁護しつつ、私は、・・・精神的判断によってのみ、すなわち、「全体から見て」宗教が人生に対してもつ意義を評価することによってのみ、達せられることを述べた。宗教的生活の特徴。1.霊的な宇宙の部分。2.より高い宇宙との合一あるいは調和的関係。3.祈り。4.贈り物、感激、真剣さ。5.安全、平安、愛情。(339)
339―341 科学と同様、極端な例の方が深い知識を与えてくれる。宗教も同様。次に、実際問題:「生活のこの要素における危険は何であるか?そして、正しい均衡を与えるためには、この要素はどの程度に他の諸要素によって抑制される必要があるだろうか?」という問題。もう一つ別の問題:「宗教とそのほかの諸要素との混合はすべての人において同一であると考えるべきであるか?はたして、すべての人間の生活が同一の宗教的要素を示すべきであると考えるべきであるか?言いかえれば、これほど多くの宗教の型や派や教義が存在しているということは慨嘆すべきことであるか?」「否」(340)様々な人間がみんな、神的なものの闘士となることによって、貴い使命を見いだすことができる。一つ一つの態度が人間性の使命全体の一言。
342 病める魂なら救いの宗教を求める。しかし健全な心の人間ならどうして救いのことを重要視する必要があるか?ある人々の方がいっそう完全な経験をもち、高い使命をもっている。注)一度生まれと二度生まれ型の対照は程度の問題。二度生まれ型の方が悪の要素や、より高い綜合があるが、一度生まれ型も危機がある。(343)
343 宗教科学。科学は宗教の原因や要素について理解し、どの要素が他の知識部門と調和して真と考えられるべきかを決定するかもしれないが、人間の生きた信仰の鋭さを鈍らせるだろう。宗教科学は、生きた宗教の代用とはなりえない。(344)宗教科学ができても、理想的な力の現前に対する信仰と、祈りによって交わり、現実的な結果が生じる信仰に同意しても、そのような信仰がどの程度まで真と考えられるかを決定できない。自然科学は霊的な力の現前に関与しないし、観念論的な概念とは交渉をもたない。科学者は唯物論的。(345)
346 周囲には、宗教は時代遅れのもの、古代の「遺物」の一つ、後戻りしたものにすぎないという考えが広まっている。この考えに、宗教人類学者たちは大して反対しようとしない。この考えを「遺物説」と呼ぶ。私たちが見てきた宗教的生活の旋回している枢軸は、個人が自分の個人的運命に関心をもつということである。これに反して、科学の方は個人的な見地をまったく放棄する。科学は自己の諸要素を分類し諸法則を記録するが、それらからどんな目的が導きだせるかに頓着しない。人間の不安や運命にどんな関係をもっているかを顧みずに、自己の理論を組み立てる。科学者も個人的には宗教を心に抱くかもしれないし、有神論者かもしれないが、科学自身に対して、天は神の栄光をあらわすといった時代は過ぎ去った。今日では、調和ある運行をなす太陽系は、運動の過程中に生じた過渡的な現象に過ぎないとみられている。宇宙について云々(347)。究極目的などありえない。自然神学の書物はばかげている。個人的な自己は、泡のようなもの。
353 この観点からは、宗教を遺物として取り扱うのは自然。先祖にとっては、夢や幻覚や啓示やでたらめ話が、事実と分かちがたく混じり合っていた。(cf. バーチャルな世界)。
356 科学の説明や予知の成果。しかし、重量、運動など、つまらない概念。自然を生きたものとみる見方の方が自然の生命に関する知識にいたる前途有望として哲学になぜ選ばれなかったのか。宗教的な心が感銘を受けるのは、曙光や虹の「約束」、雷の「声」、夏の雨の「おだやかさ」、群星の「崇高さ」であって、自然法則ではない。目に見えない実在に対する犠牲が心を安らぎと平安で満たす。
357―359 時代錯誤だと遺物説はいう。私的なものを宇宙的なものに混入するのをやめればやめるほど、普遍的・非人格的な概念に住む。だが、公平無私だが、浅はかだとジェイムズはいう。宇宙・普遍的なものは、実在の象徴を扱っているに過ぎないが、私的・人格的な現象を扱うやいなや、完全な意味での実在を扱っている。私たちの経験の世界は、客観的な部分と主観的な部分から成りなっている。客観的な部分は事物の総計であり、主観的な部分は内的「状態」。経験が与える限りの宇宙的対象は、事物の観念的な像に過ぎず、その存在を内面的に所有していない。外に存在している。これに反して、内的状態は経験そのものであり、内的状態の実在性と経験の実在性は一つ。充実した事実。(358)運命の女神の車輪の上で展開してゆくのを感じている自己の個人的運命の危機についていだく、感じは、自己中心的・非科学的と冷笑されるかもしれないが、この感じこそ具体的現実を満たす唯一のもの。この感じを欠いている自称存在者は半分の実在の一断片。
359―360 感情、精神的態度を除外するのは、食事のかわりに献立表を出すようなもの。個人の宗教は自己中心的であるかもしれないし、狭いかもしれないが、科学よりも、内容が充実しており具体的。乾葡萄。遺物説の主張は、献立表で満足すべきだというようなもの。個人の運命につながる特殊な問題がどうであれ、それが本当の問題であって、問題が開発する思想領域で生きるのが深い人間になり、宗教的。「だから、私は、宗教の遺物説を、どんでもない誤謬の上に立っているものとして、躊躇なく排斥する」(360)。事実誤認を宗教と混同しても宗教的であることをやめるべきという結論にはならない。宗教的、究極的実在。「責任をもって関心をかたむけるべきものは、私たち個人の運命しかないのである」。注)宗教的な宇宙観、生の事実。科学的事実と宗教的事実の分離は、永久的なものではないかもしれないし、人格的な見方もロマン的な見方も用がないわけではない。進歩の道が直線的よりも螺旋的に進むように、人格的な型に逆戻りするかも。(362)
362 なぜ私が個人主義的であったか、感情の要素の重視、宗教の知的な部分を軽視に熱中していたことがわかっただろう。個性は感情にもとづいている。感情の奥底こそ真の事実の生成過程をとらえる…唯一の場所。個人化された感情の世界と比べては、知性の観想する普遍化された対象の世界などは、中身も生命もない。列車の美しい写真を見て、動いていると想像するが、どこにあのエネルギーがあるのか。Cf. 芸術、絵画。
365 宗教はそのような運命について何を啓示するか、あるいは、はたして宗教は人類への一般的使信と考えられるに足るほど明確な何ものかを啓示するであろうか。
366 思想と感情とはどちらも、人間の態度の決定者である。もし宗教の本質をつかもうと望まれるならば、諸君は理論よりもいっそう不変的な要素として、感情と態度とに留意しなければならない。宗教が仕事を営んでいる短絡は、この二つの要素の間にある。
367 宗教的感情の特性。宗教的感情はいかなる心理的領域に属するものであろうか?カントの強壮な感情。この感情がいかにゆううつな気質に打ち勝ち、忍耐力を与え、風味とか意味、魅力、光輝を与えるかを知った。リューバ教授はそれを「信仰状態」と呼ぶ。トルストイが信仰を、人がそれによって生きるところの力の部類に入れているのは正しい。信仰状態は最少量の知的内容しか含んでいないかも。熱狂かも。何か偉大なふしぎなものの気配がするという感情かも。
369 けれども、知的内容が信仰状態に結びつくと、信仰に影響を与えずにはいない。信条と信仰状態。リューバ:神を役に立てるうちは、神が誰か、神があるのかさえ気にしない。神は知られない、理解されない。利用される。友人として。愛の対象として。宗教的意識はそれ以上、問わない。神が存在するか等々は些細な問題。生活が豊かな満足を与えてくれる生命が、宗教の目的。生命に対する愛こそ、宗教の推進力。
371 知的内容を調べる。1.信条は一致して立証する共通な核心をもっている。2.その信条を真と考えるべきか? 第一の問題について肯定。様々な宗教の互いに敵対する神々と信条は、互いに他を抹殺し合っているが、合流するようにみえる一様な意見がある。それは、不安感、およびその解決。前者は、自然の状態にありながら、どこか狂ったところがあるという感じ。後者は、より高い力と正しく結びつくことによって、この狂いから救い出されているという感じ。
372 個人は自分の狂いに悩み、それを正常でないと感じているかぎり、それを意識的に越えているのであり、より高いものが存在するなら、それに触れている。より善い部分がある。どちらの部分が真の存在と見るべきかは、この段階では明らかではない。しかし、段階二(解決、救い)に達すると(突然に、あるいは徐々に、あるいは生涯を通じて)真の存在はより高い萌芽の部分であることを知る。次の仕方で知る。より高い部分が、同一性質の、より以上のものと境を接し連続していることを意識するようになる。より以上のものは、外部の宇宙で働き、現実に接触でき、より低い存在が砕け散ったときに救われるようなもの。
373 分裂した自己とその葛藤を説明している。人格の中心の変化、より低い自己の降服という意味を含む。助ける力が外部に出現することを表しているが、その力と合一するという感じをも説明している。安全と歓喜の感じ。すべてにあてはまる。神学や気質にある細目を付ければ、個々の形式ができあがる。注)自己以上であると同時に自己と同一の存在の感じ。神であり私。存在の「客観性」は以上性、非常性。この分析は、宗教的経験を心理学的現象として考察しているに過ぎない。新しい生命。しかし、主観的なものの感じ方、空想の生む一種の気分でしかないかも。
374―375 第二の問題:「宗教的経験の内容の客観的「真理」は何か?」。真理性の問題。より高い自己が宗教的経験のなかで調和ある現実的な関係を結ぶにいたるように見える、あの「同一性質のより以上のもの」。観念にすぎないのか、実際に存在するのか?どんな形で存在するのか?働くものか?「合一」をどんな形式で考えるべきなのか?これらに答えようとするときに神学の理論的活動、差異が明瞭になる。「より以上のもの」が存在することには、すべての神学が一致。だが、一人の人格的な神、神々、世界の構造の傾向の流れ、などの違い。また、働き、良くなるという点でも一致。だが、「合一」の経験については思弁的な差異が生じる。汎神論、有神論、合理主義と神秘主義など。(375)共通の教義を公式化したい。この教義を宗教科学の折衷的な仮説として採用させて、一般的な信仰として推薦、立ててみたいと言った。(375)
375―377 いよいよ試みる。「仮説」という以上、論証を強制しない。せいぜい、事実と適応するものを提供し、科学的論理学でさえ、真であると歓迎しようとする衝動をおしとめる口実を見つけられないようにすること。研究の中心:「より以上のもの」と、それとの「合一」。キリスト教神学にたって、エホバと義と決めるのは不当。不公平だし、過剰信仰。まずはあまり特殊化されていない言葉。宗教科学の義務:他の科学との連絡を失わせないこと。心理学者も事実と認める仕方。潜在意識的自己は、公認された心理学的実在物(潜在的意識というけど、感じの理論はより深い。cf. ブラドリー)。これこそ媒介的な概念。宗教的な考慮とは別に、より以上の生命がある。(376)意識を超えた領域の探求。マイヤーズ、1892年、潜在意識の論文。大きな背景の大部分は、無意味なもの。しかし、天才の仕事の多くも、ここに起源があるし、宗教的生活においてこの領域からの侵入がどれほどの役割を演じているかは、回心、神秘的経験、祈りの研究で知ったところである(ブラドリーの感じ、潜在意識だろうと、感じはこちら側の世界。彼方は彼岸。)
378―381 一つの仮説としてこう提唱したい。「より以上のもの」は、向こう側では何であろうと、こちら側では、意識的生活の潜在意識的な連続である、という仮説。科学との連続を保つ。外的な力によって動かされているという神学者の主張も支持される。外部からの支配の暗示が潜在意識圏の侵略の特徴だから。この支配は、「より高い」ものと感ぜられるが、超越する力との合一の感じは、見かけだけでなく、真実な或るものの感じである。この戸口が宗教科学の最善の道だと思う。戸口を抜けると、超限界的な意識は、困難があらわれてくる。ここで過剰信仰が始まる。啓示をもちだして、信仰が本物であることを立証しようとする。(379)啓示を個人的に恵まれていない人々は、啓示の外に立たざるをえず、確実な成果をのこさないという決定を下さざるをえない。啓示の一つを信奉するか、哲学的理論を信奉して、個人的な感受性、知的な感受性に適合するように宗教を作り上げる。(380)宗教的な問題は、賜物として啓示される合一の中で生きるか生きないかの問題だが、賜物を実在的と思わせる霊的興奮は、知的な信仰ないし観念が動かされるまでは、個人の心に起ってこない。過剰信仰をやさしい寛容な態度で遇すべき。興味深く貴重なものは、過剰信仰なのである。(381)
382 過剰信仰はさておき、一般的・共通なものに限ると、意識的人格は救いの経験をもらしてくれる広大な自己と連続している、という事実こそ、客観的に真である積極的内容(ここまでは言えるということ)。その先の仮説は、私自身の過剰信仰を提供することになる。
383 存在の向こう側の限界は、感覚的に知覚される、悟性で知られる世界とは違った存在の次元にくいこんでいると私には思われる。神秘的領域、超自然的な領域と名付けてもかまわない。理想的な衝動がこの領域に起源する限り(衝動が説明できない仕方で私たちを支配していることを知っている)、目に見える世界に属しているよりも本質的な意味で、この領域に属している。なぜなら理想の属しているところにこそ、私たちは本質的な意味で属している。目に見えない領域は単に理想的なものではない。なぜなら世界に現実的効果を生み出すから。有限な人格の上に行われる。他の実在の中に効果を生み出すものは、一つの実在とよばれなければならない。だから、目に見えない、神秘的な世界を非実在的と呼ぶべき哲学的理由をもたないように思う。
384 神の名で呼ぼう。私たちと神とは取引関係をもつ。自身の心を神の影響力に対して開くことによって、深い運命は充足される。めいめいが神の要求をみたすか避けるかに比例して、宇宙は、個人的存在が構成している部分は、善くも悪くもなる。ここまでは賛成されるだろう。なぜなら、神は現実的な効果を生み出すから現実的にあるという人類の本能的な信念と呼んでいいことを、図式的に翻訳しているだけだから。
385 宗教的人間は、全宇宙の存在者が、守られていると信じる(神秘主義者なら知っている)。みんなが救われているような或る感じが、或る次元があることを確信している。神の存在は、理想的な秩序があることの保証である。科学が断言するように、世界は焼き尽きるか、凍るかもしれないが、神の秩序の一部分であるにしても、理想は、どこかで達成されるはずであり、悲劇は一時的・部分的にすぎず、難破や解体は究極ではない。信仰の歩みがさらに踏み出される場合のみ、遠い未来の客観的帰結が予言されるのみ、宗教は、直接的・主観的経験から解放されて、現実的な仮説を活動させる。(cf. ロイスらの思弁的理論への批判。感情の肯定。)
386 科学における優れた仮説は、直接説明するように要求されている現象の性質だけではなく、それ以外の現象の性質をも説明するものでなければならない。そうでなければ多産的でない。宗教的人間の合一の経験に入ってくるしか意味しない神は、有用な種類の仮説に足らない。絶対的な確信と平安を正当とするためには、宇宙的な関係に入らなくてはいけない。神は絶対的な世界支配者というのは、過剰信仰。しかしあらゆる人間の宗教の一箇条である(cf. 多元的宇宙、ロイスへの批判)。哲学はこの信仰の上に接ぎ木されている。ということは、宗教は、与えられている事実の照明でも、事物をバラ色の光で見る単なる情熱でもない。宗教は、それ以上の或るもの。新しい事実の要請者でもある。宗教的に解釈された世界は、唯物論的な世界の言い換えではなく、違った自然的構造、態度がある。
387―388 このプラグマティックな宗教観は、当然のもの。自然の領域に神的奇蹟を挿入した。墓の彼方に天国を建設した。自然を絶対精神の表現、神的なものとするのは超越論的な形而上学者。私は宗教をプラグマティックに解する方が深い見方だと信じている。信仰状態や祈りの状態においてエネルギーが流れ込むという事実以外に、神的事実があるのかを私は知らない。しかし、それが存在していると信じるのが過剰信仰。現在の意識の世界は多くの意識の世界の一つに過ぎない。高いエネルギーがしみ込んでくる。この過剰信仰に対して私は忠実であることによって、健全で真実でいられるように思われる。私も、科学者の態度をとることも、感覚の世界と、科学的法則および対象の世界が全部なのかもしれないと想像することもできる。しかし、「馬鹿な!」と聞こえる。人間的経験の全表現は、「科学的」な境界を超えさせずにはおかない。確かに、現実の世界は自然科学が認めているのとは違った性質のもの。客観的意識からも主観的意識からも、過剰信仰に達せざるをえない。過剰信仰に忠実であることが、神の事業に対して忠実であることになって現実に神のお役に立つことになるかもしれない。(388)
“事実や法則とは違う、意味や価値や意義。信仰の領域、個人的経験の領域。だが、単なる主観、妄想、空想にすぎなくなってしまうのでは?そうではないものとして保証するのが、客観的・対象的な、より以上のものと、その宗教的経験。(偶然性、非斉一性の中に必然性、合理性がある?)

事実と違っても、あるいは規定や生理的・心理的事実に抗しても、それを超える何事か=人生の意味や意義。星ぼしを眺めて、単なる岩石やガスの塊、法則とみるのか、そこに美しさや意味を感じるか。むしろ科学が感じにもとづいている。Cf. Whのワーズワース。

宗教や価値は個人的だが、個人的であるといって考察しているのは客観的で普遍的。自然科学とは違う意味で。

神、過剰信仰。しかし多元的宇宙ではロイスを批判して、合理的で完全な神を批判。後記に書かれているように、ジェイムズは、世界をきれいに作っている神、およびその思弁的な哲学理論、そうした神の世界救済を批判。現実とは違うし、現実的経験にそぐわないし、現実に入り込まないから。プラグマティズムは、それを信じれば有用という立場に尽きない。具体的な宗教経験があって、現実の経験を通じて、神の救済の感じが現にあること、その神を信仰することの効果を説く。神がうまくいかせるのですという理論ではなく、現実の経験や感情が先。”

後記
389―390 結論では、一般的な哲学的立場の陳述が不十分だった。この結語を付加する。いつか後に一書をあらわす。 この分野では独創性を期待できない。自然主義者と超自然主義者に区分するとしたら、超自然主義者に入る。超自然主義には、愚かしいものと洗練されたものがある。今日の大部分の哲学者の属しているのは、洗練された方。カント的方向。洗練された超自然主義者は、普遍救済論的な超自然主義者。愚かしい種類は、「断片的」超自然主義者という名をあてる。教育のない人々の旧式な神学、カントに追い払われた二元論の教授たちの旧式な神学。奇蹟と摂理、理想世界からの影響が入りこむとして、理想世界と現実世界を混ぜ合わせることに知的困難を見出さない。これに対して洗練された方は、異なる存在の次元をゴチャゴチャにしていると考える。理想世界は、原因作用をもっておらず現象世界に侵入しない。理想世界は事実の世界ではなく、事実の意味の世界であるに過ぎない。事実を判断するための一つの観点。存在命題の妥当する学とは別の「学」に属する。経験まで降りてこない。(390)
390―391 私は、理想的なものとの交わりによって新しい力が世界に入ってきて、新しい出発がなされると信じる以上、断片型あるいは愚かしい型の部類に入る。普遍救済論的な方は、容易に自然主義に降伏するように思われる。自然科学の事実をうけとり、全体として生命に関する感情以上に出ない。理想世界を普遍救済論的に解する見方では、宗教の精粋は消えてしまうように思われる。差異を作らない原理があるとは信じられない。神の存在の問題の関心は、神の存在から特殊な事実の上に必然的に生じてくる結果のように思われる。具体的な個々の経験が様相を変えないという命題は信用できない。しかし洗練された超自然主義者はかじりつく命題。絶対者が関係を保つのはただ全体としての経験とだけであるという。注)個人的な重荷を手伝ってくれない神なんておかしい。
392―393 仏教、業、審判。アカデミックな判決でもプラトニックな評価でもない。反対に、執行を伴い、事実全体の中で因果的に働く。グノーシス説。しかし、この審判と執行の見方は、愚かしい超自然主義。Cf. 『信じる意志』。思想の大勢が私とは反対の方向をとっている。断片型の超自然主義、それがもつ形而上学的意義を論議をつくすなら、これこそ正当な要求に応ずる仮説であることが明らかになると信じる。(393)
393―394 神の存在によって事実に生じる差異はどこに入ってくるか。「祈りによる交わり」の現象が、潜在意識の領域から侵入する或る種のものがそれに加わる場合に、直接に暗示するもの。私たちの一部であるが、私たち自身ではない理想的な或るものが、現実的に或る影響を及ぼして、個人的エネルギーの中心を振い立たせ、再生的な効果を生ずる。日常の意識の世界より広大な存在の世界があるとすれば、その世界に私たちに途切れ途切れ影響を及ぼす力があるとすれば、その影響を助長する条件の一つが「潜在意識」の扉を開けることだとすれば(受け入れる態勢)、宗教的生活の諸現象が賛意を表すような理論の諸要素を手にしている。彼岸的なエネルギーが、神が、自然的世界のなかで直接的な影響を生み出すかのように見えるだろう。(394)
394―396 神が存在する場合の「事実」における差異は、個人の不滅性。宗教は不滅性を意味する。神は、不滅性の生産者である。不滅性は、二次的な問題。「輪廻」の立証には不十分。 理想的な力、神は、「唯一」であり、「無限」である。研究してきた宗教的経験は無限性の信念を支持するとはいえない。(395)証明している事柄は、大きい或るものと合一を経験しうること、合一の中に最大の平安を見出しうることである。哲学と神秘主義は、極端に走り、唯一神と同一視する。これに反して、宗教の実際的要求と経験は、各人を越えたところに、連続したところに、各人とその理想に親切な大きな力が存在する、という信仰に満足を感じていると思われる。事実が要求するのは、力が意識的自己とは別のもので、意識的自己よりも大きくなければならないということだけ。無限でも唯一でもある必要はない。自己よりも大きいから、現在の自己は不完全な表現でしかなくなり、宇宙はそういう自己の集まりと考えられ、絶対的統一など実現されている必要はない。注)インガーソル広義。多神論。現在の目的は、宗教的経験の証言の範囲内にとどまること。(396)
397 一元論的な見方の人。絶対者においてのみすべて救われる。多神論は不十分。 しかし、究極的な宗教哲学は、多元論的な仮説を真剣に考慮しなければならない。救いの見込みは十分にある。人間性。見込みの存在が諦め・希望を基調とする生活の差異を作る。

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