生成する出来事

生成する出来事

中期のホワイトヘッドは、「出来事(event)」と「客体(object)」を基本概念として、自然哲学を展開していました。しばしば、ホワイトヘッドは、生成消滅する「出来事」や移り行く「過程(process)」のみを強調したと誤解されていますが、実際には、出来事と客体、生成と存在は、常にセットで考えられています。まず、このページでは、出来事についてみていきましょう。

生成する自然
中期のホワイトヘッドが出発点にしたのは、自然が生成しているということでした。『自然認識の諸原理』や『自然という概念』では、自然の最も直接的で一般的事実が「何かがいつでもどこでも動いている」ということに見出され、「自然を静止したままにしておくことはできないし、それを見ることもできない」と述べられています。
時空的な自然の推移 古来、自然の生成に力点を置く思想は、ヘラクレイトスをはじめ、多くの思想家・哲学者によっても唱えられてきましたが、特にホワイトヘッドは、自然の生成のうちに、新しさへと向かう自然の創造性や生命の息吹きも感じ取っています。中期著作に散見される「創造的前進」、「エラン・ヴィタル」といった言葉や、ホワイトヘッドがベルグソンの影響を受けていたというラッセルの回想録は 、機械論的な世界観を脱する際にホワイトヘッドが、自然の動性や生命を強調しようとしていたことを示しています。もっとも、ベルグソンからの影響は本質的ではなく、実は疑わしいと、伝記作家のローにより指摘されていますが、ともかくホワイトヘッドは「自然の過程」ないしは「自然の推移」に、測量可能な時間とは区別される、より根源的な自然の事実をみようとしていたことは疑いありません。科学における計量的時間と区別するためにも、自然の推移をベルグソンのように「時間」と呼ぶことは避けていますが、推移は、自然が活動的に生成・発展していく「創造的前進」という根源的特性を示していると考えられています。つまり、「自然が常に動き続けているということはこの推移のおかげである」。
時空的な自然の推移 注意すべきは、推移という自然の事実は、計量的時間でないのはもちろんのこと、時間と空間が分かたれる以前の、時空的(spatio-temporal)なものであるということです。ホワイトヘッドのいう推移とは、時間的な推移だけでなく空間的な推移も含意しており、時間と空間の分化以前の自然の事実です。中期著作では、それは「出来事」と呼ばれ、真に実在する究極的事実とはこの出来事であると考えられています。ホワイトヘッドは生き生きした持続を我々の自然認識にとって直接的かつ具体的な経験の事実とし、自然の一般的事実を、生成する出来事にみてとりました。
流れ去る出来事の一回性 生成する出来事は時間的にも空間的にも流れ去り、その都度一回限りのことです。「それは二度生成することはできない。というのも、本質的にそれは、そのとき・そこにあるそれ自身に他ならないからである」。例えば、「ある人が車にひかれる」ということは出来事であり、それは、あるとき・ある場所において車にひかれるということを指してます。また、何千年と存続し続けこれからも存続し続けるだろうピラミッドのような存在も、細部は変わり、いつかは消滅するのであるから、他の自然の諸存在と同様に生成し推移しています。生成する出来事として捉えられる限り、自然のうちに存在するどんな現存も過ぎ去りゆくことを免れません。
ただし、これら2つの例からもわかる通り、中期哲学において定義される出来事は、必ずしも瞬間的に過ぎ去ることを指すわけではなく、それぞれが時空的な厚さをもっています。「ある人が車にひかれる」という出来事は、車が人に衝突し始めてから、撃力が働いたのち、人が倒れるという一連の出来事全体です。この出来事は、我々人間の認識能力にとってみればあっという間のことかもしれませんが、ある程度の時間的な厚みをもっています。無論、この出来事には空間的厚みもあります。日常語において出来事は、時間的なある瞬間のことを指しがちですが、現実に生じるどんな出来事においても時間と空間は分化されておらず、空間なき時間的出来事も、時間なき空間的出来事も存在しません。ましてや、ユークリッド幾何学において定義される大きさや幅をもたない線や点、あるいはまた、古典物理学で想定されるような空間とは独立した線形時間は、自然の直接的な事実ではありません。アインシュタインの相対性理論が明らかにした時間と空間の非独立性は、驚くべき事実のように語られますが、自然の直接的で具体的な事実を見つめるならば、はなから自然の出来事は時空的な厚さをもった出来事なのです。
出来事は延長をもつ ホワイトヘッドは時間と空間が分化される以前のこうした出来事の特性を「延長」と呼びます。デカルトが物体と心をそれぞれ実体とし、前者の属性を延長としたとき、その延長はもっぱら空間的延長でしたが、ホワイトヘッドのいう延長は時空的な延長であり、時間と空間は時空的な出来事の延長から分化すると考えられます。先の例でいえば、「ある人が車にひかれる」という出来事全体は、衝突する、撃力が働く、人が倒れるという各出来事を時間的にも空間的にも越えて延長しています。逆に撃力が働くという出来事は「ある人が車にひかれる」という出来事によって被覆されています。空間的側面についても、(出来事としての)車は、(出来事としての)その車のタイヤを越えて延長しています。また、一年を通して存続している(出来事としての)ピラミッドは、一ヶ月を通して存続しているピラミッドを越えて延長し、さらに一日を通して存続しているピラミッドを越えて延長しています。一般に出来事は時空的に他の出来事を越えて延長しています。逆にいえば、一ヶ月あるいは一日を通して存続しているピラミッドは、一年を通して存続しているピラミッドの部分であり、車のタイヤは車の部分であるともいえます。
延長抽象化の方法 時間と空間は、諸出来事がもつこうした延長の部分‐全体関係から抽象化を通して分化します。ホワイトヘッドはその方法を「延長抽象化の方法」と名づけ、それによって、「瞬時的平面」、「瞬時的線」、「瞬時的点」、「平面」、「直線」、「点」、「非時間的三次元空間」など、幾何学や自然科学(特に物理学)の基本概念を導出しています。その実際の導出仕方は『自然認識の諸原理』や『自然という概念』を参照して頂きたいと思いますが、ここで注目しておきたいのは、出来事の延長関係およびその抽象化の方法が、出来事の連続的な部分‐全体関係にもとづいているということです。すなわち、上でみた例からもわかるように、出来事の延長関係は、ある全体がその部分を越えて広がることであり、逆に、ある部分はその全体に含まれていることです。延長抽象化の方法で時間や空間は、こうした部分‐全体関係にもとづいて抽出されます。中期哲学で時間は、より前であるとか、より後であるとかを示し、空間は、より右であるとか、より上であるとかを示すのであり、カントール‐デデキント型の連続性をもった系列的な順序関係として導出されているのです。

参考:延長抽象化の方法

出来事aが出来事bを越えて延長しているという事実をaKbと表す。ここでKは「~を越えて延長する」を意味し、延長関係を示している。Kの諸特性は次のように表せる。(i)aKbはaがbとは異なっているということを含んでおり、部分は真部分を意味する。(ii)任意の出来事は他の出来事を越えて延長し、それ自体他の出来事の部分である。出来事eが越えて延長する諸出来事からなる集合をeの部分集合と呼ぶことにする。(iii)bの集合がaの集合でもあり、かつaとbが異なっているならば、aKbである。(iv)関係性Kは推移的である。すなわちaKbかつbKcならばaKcである。(v)aKcならば、aKbかつbKcとなるようなbという出来事が存在する。(vi)aとbが任意の二つの出来事であるならば、eKaかつeKbとなるようなeという出来事がある。

参考:こぼれ話―ラッセルとのケンカ

直接経験の所与から数学的対象が抽象する「延長抽象化の方法」は、『プリンキピア』第3巻を刊行後、ホワイトヘッドが構想していたものでした。しかし、机にあったその草稿をラッセルは見て、1914年、そのアイディアを『外界の知識』 で発表します。ホワイトヘッドは、手紙の中で次のようにラッセルを叱責しています。
「私は、私の考えが、現在の所、私の名においてにしろ、他の誰かの名においてにしろ、普及されることを望みません。……私は、あなたが各章にわたって、理解しやすくなっている私の草稿を、私が全面的な真理とは考えないような一連のものに陥れるようなことをしていただきたくないのです。あなたが、私のこのノートの助けを借りないでは仕事に取りかかることができないと思われることは、誠に残念です。」
1914年の段階では、「延長抽象化の方法」は不完全だったため、ホワイトヘッドは公表しなかったのですが、ラッセルが先に発表してしまったのです。ラッセルは、その著作の中で、これはホワイトヘッドの着想だと敬意を払ってはいるのですが、ホワイトヘッドはそれに不満を感じていたようです。(その後、二人は、英国紳士の精神で、仲直りします。)

系列的時間は不可逆の時間を表現しない しかし、ここには、のちにホワイトヘッドの転換に関わるような本質的な問題があります。すなわち、連続的な部分‐全体関係にもとづく系列的な順序関係として導出される時間は、抽象された限りの時間に過ぎず、具体的な自然の事実を捉え損なっているという問題です。確かに中期哲学の延長抽象化の方法は、物理学などで用いられる時間tを、自然の直接的事実である出来事の延長から導出することには成功しています。しかし、延長の部分‐全体関係から抽象して定義される中期哲学の時間は、時間の不可逆性や動的な過程を表現し損なっています。それはちょうど、物理学などで用いられる時間tにおいて、過去・現在・未来という時間の向きは我々が恣意的に割り当てているだけで、時間の不可逆性は最初から前提されてしまっているのと同じようにです。出来事の延長がもつ空間的側面については、右と左、上と下に非対称な本質的区別がなくてもよいでしょうが、時間的側面については、本質的に過去と未来の区別がなければ、動的で不可逆な推移という自然の事実に反してしまうでしょう。つまり、出来事の延長の抽象化は時間的側面に困難を抱えていました。ホワイトヘッドは「この系列的時間は明らかに自然の推移そのものではない」といってこの問題を自覚し、『自然認識の諸原理』第2版(1924年)の注釈では次のように述べています。「『過程』が根源的な考えであるという真の思想は十分強調されて私の念頭にはなかった。延長は過程から派生しているのであり、それによって必要とされる」。この時間の問題が、中期ホワイトヘッドから後期ホワイトヘッドへの重要な転換をもたらします。(拙論・吉田幸司「過渡期ホワイトヘッド哲学の発展史研究-時間のエポック理論導入に至るまで-」『プロセス思想』を参照)

参考:発生的時間の問題

こうした中期哲学内の理論的な問題に加えて、中期哲学では、意識的な時間など発生論的な時間は最初から度外視されているという問題もあります。中期哲学における時間や空間は、自然内の出来事から抽象される自然内の時間・空間であり、意識的な時間でもなければ、認識主観がもつア・プリオリな能力のようなものでもありません。「我々はア・プリオリな必然性について考えているのでもなければ、証拠となるア・プリオリな諸原理に訴えかけているのでもない」。中期自然哲学は、自然内で知覚されるもの・知られるものを考察の対象とし、意識を含むような知覚するもの・知るものは、自然内の要素とは異質なものとして議論から排除されています。動的な過程としての時間の問題とともに、知覚するもの・知るものが関わってくる時間の考察は、後期形而上学の課題として取り残されました。

出来事と客体 さて、ここでみてきた出来事は、再現不可能な一回限りのことです。それは、とどまることなく絶えず動き続けているのだから、それ自体では自己同一性をもたず、何であるかという本質をもちえません。もし自然の要素が出来事だけであったならば、世界にはとどまるものは何もなく、すべてが流れ去ってしまうことになるでしょう。この点に寄与するのが「客体(object)」という概念です。出来事は常に、客体との相関の中で理解しなければなりません。次のページでは、「客体」、およびそれと「出来事」との関係をみてみましょう。

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