出来事と客体

出来事と客体

中期のホワイトヘッドは「出来事」と「客体」を基本概念として使っています(「生成する出来事」のページ参照)。出来事と客体は、対照的な自然の要素ですが、互いに他を必要とするような関係で結ばれています。ここでは、まず客体について概観し、そのあと、出来事と客体の関係をみていきましょう。

推移しない要素=客体
中期自然哲学において「客体(object)」とは、出来事とは対照的な自然内の要素です。出来事が、推移する自然内の要素であるのに対して、「客体は推移しない自然内の要素である」。例えば、知覚される草の「緑色」は、一時間前も一分前も一秒後も変わらず緑色といえます。ウールの靴下は、何度もほころび、何度も繕われ、もともとのウールがまったく残されていなくても、最初と同じように靴下といわれます。また、電子は、水素分子中の電子であれ、水分子中の電子であれ、同じく電子といわれます。一年前の私も現在の私も一年後の私も、私といわれます。このように、今・そのときにおいても、ここ・そこにおいても自己同一的な存在が、中期哲学では客体と呼ばれています。

参考:客体の種類

中期のホワイトヘッドは、主な客体として、「感覚的客体(sense object)」「知覚的客体(perceptual object)」「科学的客体(scientific object)」を挙げています。感覚的客体とは、赤や青といった特定の色合い、ドやレといった特定の音など、感覚覚知(感覚意識sense-awareness)によって認知される、推移しない自然の要因です。知覚的客体は、机や椅子など、我々人間が日常的に知覚する客体であり、科学的客体は、電子や原子などの、科学が扱う客体です。このうち感覚的客体は我々の自然認識にとって原初的なものであり、「感覚的客体の状況が我々の自然認識の基礎全体を形作り、自然認識の構造全体はそれらの関係性の分析にもとづいている」。

出来事と客体は対照的でありながら互いに他を必要とします。というのも、客体は、その「状況(situation)」たる諸出来事の流動の中で現れます。つまり、「緑色」という客体は、例えば、移り変わる出来事としての葉のうちに現れます。「緑色」それ自体が、むきだしのまま、自然に存在することはありません。春夏秋冬を通じて刻々と移り変わり、ざわざわと風でざわめく、生成する出来事としての葉という「状況」において、「緑色」が顕現するのです。このことを、「緑色」という客体の、出来事への「進入(ingression)」といいます。一方、生成する出来事の方も、その「性格(性質character)」が規定されるために「客体」を必要とします。すなわち、「緑色」という客体が「進入」するおかげで、ある出来事を、「緑色である出来事」として、同定できます。自然がただ生成するだけなら、私たちは、移り変わる流動の前に茫然とするだけでしょう。しかし、生成流転する出来事としての自然に、「緑色」(感覚的客体)とか、「木」(知覚的客体)といった客体的要素もあるから、私たちは、緑色の葉や、茶色の木々を同定(identify)できるのです。出来事はそれに進入する客体によって何であるかという本質をもちます。客体の方は、それが進入するところの出来事が存在するからこそ、その客体が認識されうるのです。出来事と客体は相補的な関係にあり、「客体は、出来事のうちで再認される恒久性(permanence)をもたらし、異なる状況のなか、自己同一的なものとして再認(認識recognition)される」。
しかしながら、時間や空間との関係について両者には本質的な相違があります。一方で出来事は、時間や空間がそこから抽象されるという意味で、時空的な自然内の要素です。ある出来事は、ある時間、ある空間における出来事です。昨日、雨が降り、今日もまた雨が降っても、昨日の雨と今日の雨は、異なる出来事です。東京で雪が降るという出来事は、北海道で雪が降るという出来事は、空間的に異なる出来事です。時間・空間が異なれば別の出来事なのであるから、それぞれの出来事はあるとき・ある場所の出来事に他なりません。他方、自己同一的な客体は、様々な状況たる諸出来事で再現可能です。一年前の私と、今の私は、出来事としては、異なる私ですが、それでも、自己同一的な「私」と同定されるとき、「私」という客体が、一年前の私という出来事や、今日の私という出来事に、再現前しています。一年後の私にも、「私」という客体は、現れることができるでしょう。したがって、「可能性という概念が自然の要素に適用することができるときはいつでも、その要素は客体である。すなわち客体には経験において再現される可能性がある」。諸出来事のうちに再現可能な客体は、出来事がもっているようなあるとき・ある場所といった制約を受けず、今・そのときといった時間にも、ここ・そこといった空間にも依存しない恒久的な自然内の要素です。つまり、出来事は、時間性・空間性から切り離せない要素で、あとでみるように、時間・空間は出来事の延長から抽象されてくるという限りで時間的・空間的であるのに対して、客体は、直接的には時間や空間のうちになく、「(厳密に言うと)時間や空間なしに存在する」。
一見、このことは、「有機体の哲学」とも呼ばれるホワイトヘッド哲学の成立にとって都合が悪いようにみえます。というのも、一方で出来事は、「生成する出来事」のページでみたように、部分‐全体関係をもちますが、無限に分割可能です。昨日の私、今日の私、明日の私…と出来事は、いくらでも分割できます。他方、客体は分割不可能ですが、直接的には時間や空間のうちになく、部分‐全体関係をもちません。葉の「緑色」は、出来事として微妙に色合いが変わっても、昨日も今日も明日も、同じように「緑色」といわれるのであって、昨日と今日と明日で分割されません。昨日と今日と明日に、本質的な区別がないのですから、時間性や、部分―全体の分割性をもちません。空間的側面についても同様の議論ができます。しかし「有機体」は、部分‐全体関係をもちながらも、部分と全体が本質的に依存しあうようなものです。例えば細胞は、核や細胞質、葉緑体、ゴルジ体など、たくさんの細胞小器官から構成されています。それらを、部分部分に分解してしまったら、その細胞は死んでしまいます。細胞という有機体は、部分に分解してしまったら失われてしまうような何かを、細胞全体としてもっているのです。つまり、「有機体」とは、個体(individual)として諸部分に分割することができません。上でみた通り、出来事と客体は相補的ではありますが、有機体という概念を形成する上では概念的に相対立してしまいます。自然の推移に、計量的時間とは区別される時間や「創造的前進(creative advance)」が見出されるといっても、部分と全体の不可分性や個体性を認めることができなければ、有機体論は成立しえないのです。
しかし、出来事と客体は概念的には対極的であるものの、互いに他を必要としているのでした。そうであれば、むしろ出来事と客体が何らかの仕方で結びつけられさえすれば、ホワイトヘッド哲学の有機体という概念が成立します。実際、出来事と客体を基本的概念とし、数学や自然科学を再構成していく中で、「有機体の哲学」は成立したと考えられます。次のページでは、中期哲学からローウェル講義までを中心に「有機体の哲学」の成立過程を明らかにしていきましょう。

参考:出来事の必然的関係性と、客体の偶然的関係性

出来事は、特定の時間・特定の空間における出来事であるため、別様には存在しえません。もし別の時間・別の空間に移されたら、それは、最初の出来事とは異なる出来事だからです。そのため、出来事間の関係性は偶然的関係性ではなく、必然的関係性です。つまり、ある出来事に、別の可能性、別の存在のあり方といったものはなく、ある出来事は、ほかならぬその出来事なのです。これに対して、客体間の関係性は偶然的関係であり、客体は、本質的で必然的な時間的・空間的関係性をもっていません。例えば緑色の草について、緑色は感覚的客体であり、草は知覚的客体です。緑色は蛙の緑色であっても絵の具の緑色であってもよかったでしょう。また、草は黄緑の草であっても白色の草であってもよかったでしょう。どんな関係性をもとうと、緑色は緑色であり、草は草ですが、「緑色」は、どの時間、どの場所の緑色であってもよく、「草」という客体も、どの時間、どの場所の緑色であってもよかったのです。さらには、「緑の葉」でも「緑の蛙」でもよく、「白い葉」でも「茶色い葉」でもよく、客体同士に、それ以外ではありえない関係性はありません。客体のもつ関係性は、出来事の関係性とは異なり、偶然的で、別様でもありうるものなのです。「客体の本質はその存在に対して外的である関係性に依存していない。確かにそれは他の自然の諸要素に対してある関係性をもっている。しかしそれは(同じ客体でありながら)他の関係性をもっていたかもしれない。換言すれば、その自己同一性はまったくその関係性に依存していない」(PNK)。客体は、それ自体としては同じ客体でありながら、いつも自然内の他の諸要素に対して別の関係性をもっていたかもしれないような自然内の要素なのであり、客体間の関係性は偶然的です。ちなみに、物理学は、こうした客体間の関係を分析しているのであり、「物理学は自然の偶然的関係性の科学である」(R)。

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