2.思弁哲学

思弁哲学としての後期哲学

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思弁哲学としての後期哲学
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中期自然哲学から後期形而上学への移行期における方法論についてみてきました。本節では、『科学と近代世界』とそれ以降の著作を中心に後期ホワイトヘッド哲学の方法論を分析していきます。
しばしばホワイトヘッドは、理性的合理主義者として特徴づけられ、殊にその神論は理神論の流れを汲むものだと理解されています 。啓示など神秘的要素を含む経験から即座に超自然的な実在を認めるような安直な態度を断じて、むしろ科学とも調和させながら合理的な探求を推し進めていく点でホワイトヘッドの形而上学をそのように特徴づけるのは正しいでしょう 。実際、ホワイトヘッドは、合理性に訴えて、「自然が、その存在それ自身において、自己説明的なものとして自らを表していないかどうか」探求しなければならないと述べています。

しかし、この引用箇所には次の文章が続いており、理性的合理主義という特徴づけだけではホワイトヘッド哲学の方法論全体を捉えられないことを示唆しています。

……私がこのように言う意味は、事物がどんなものであるかを単に述べるだけでも、事物がなぜ存在するかを説明する要素を含みうる、ということである。そのような要素は、我々が明確に把握しうるものの彼方にある深淵に関係する、と予想されるだろう。ある意味で、説明というものはすべて恣意的にならざるをえない。(SMW 92)

形而上学は、理性への信頼のもと、自然それ自体の探求から事物の本性を明らかにしようとしますが、この一節では、我々が明瞭に把握するものの周縁には漠とした背景が広がっていることが暗示され、説明につきまとう恣意性が認められています。理性的合理主義者であれば、恣意性を排した必然的な形而上学体系の構築が本望となるところ、最後の一文は、むしろ、そうした試みの完全な達成が不可能であることを示唆しているのです。

このことは、一見、ホワイトヘッド自身の合理主義的立場と矛盾しそれを否定しているようにみえますが、彼の哲学の方法論の真髄は、まさにこの逆説的場面にあると思われます。ホワイトヘッドは、我々が明晰に把握しうる範囲を越えた漠とした経験の領野があり、それが完全な形而上学体系の構築という合理主義の理想を阻むことを認めつつも、合理性に訴えて整合的で論理的な形而上学体系を構築しようとしました。上の引用箇所のあとには次の一文が続いています。

……私の要求したいことは、我々が説を立てる出発点をなす事実が結局恣意的なものであっても、我々の明確な識別能力を越えた領域まで広がっていると我々自らがおぼろげながら識別する実在の一般的諸原理を顕わにせよ、ということである。(SMW 92f.)

この一節から読み取れるように、終極的な形而上学体系を構築することはできないかもしれませんが、それでも実在の一般的諸原理を明らかにすべく合理的に探求していくことこそ、ホワイトヘッドの形而上学的試みでした。

『科学と近代世界』のうちでもローウェル講義におけるこの態度は、後期哲学全体に渡って一貫しており、特に実在の一般的諸原理の探求はホワイトヘッドが科学や哲学について挙げる方法論です。『過程と実在』では、科学は、想像力を通じて特殊な事例から一般化していく営みだと考えられ、哲学についても、「哲学の研究とは、より一般的なものに向けた航海である」(PR 10)と述べられています。さらに『観念の冒険』では次のように書かれています。

哲学は、諸々の一般性の結合の可能性を理解することを目途として、それら一般性へと上昇することである。こうして新しい一般性の発見は、既知の一般性の豊饒さに増し加わる。それは新しい結合の可能性を瞥見させる。(AI 235)

つまり、特殊なものから一般的諸原理を見出していく点に限れば、科学も哲学も同類だとみなさます。科学も哲学も、根は一つのものとして、特殊なものからより一般的な諸原理を見出していくような方法論的特徴をもつと考えられるのです。

一般化は、最初、物理学や生理学、あるいは美学や社会学など、人間の関心が向けられる特定の題材においてなされるかもしれませんが、一般化が進むにつれて諸原理の適用範囲は拡大されます。例えば生命の機構を一般化しようと定式化されたシステム論が、社会システム論へ適用範囲を拡大することもあるでしょうし、また、その逆もあるでしょう。特殊な事例から一般化された、ある特定の分野の諸原理は、一般化が進むにつれて他の分野にも応用され、適用される事例を増やしていきます。ホワイトヘッドの主張するところ、一般化の成功は、一般的諸原理が見出された当の分野を越えて適用の範囲を拡大していくことにあり、当の適用範囲を越えた諸事例にもその一般的諸原理の例証が見出されていくことにあります。

一般的諸原理の究明という点に限れば、科学と哲学との相違は、その扱う範囲の相違に過ぎません。科学は哲学よりも制約された特殊なものを扱いますが、より一般的なものを求めるとき科学は哲学になります。科学と哲学の歴史を振り返れば、「当面の主題に有効に適用可能な最も一般的な諸観念の発見に主に力点を置くような科学の揺籃期には、哲学は科学と明確に区別されなかった」(PR 10)。この限りでは科学の方法は哲学の方法のうちに包摂され、総じて、直接の起源を越えて適用範囲を拡大していく「哲学的一般化philosophic generalization」の方法であると考えられます。それは、「ある制約された事実群に適用される特殊な観念を、すべての事実に適用される類的観念の明察のために利用すること」(PR 5)です。

この点においては形而上学さえも科学と同類であり、『宗教とその形成』では、形而上学とは「生成して生じるすべてのことの分析に必ず関連しているところの一般的諸観念を発見しようとする科学」(RM 84n.)であると定義されています。形而上学はより包括的であるという点で科学と区別されるに過ぎず、『過程と実在』では、「科学は特殊な種を探究すべきであり、形而上学はそれらの種の特殊な諸原理がそこに落ち着く類的観念を探究すべきである」(PR 116)と両者が相対的に区別されています。個別諸科学を枝としてもつ知の体系こそホワイトヘッドの形而上学に他ならないのです。

もっとも、科学が厳格な実証主義のそれとして理解されるときホワイトヘッドは科学に批判的であり、ベーコンや実証主義者たちが、観察された事実にもとづく実証性を強調する反面、「自由な想像力の遊び」(PR 5)を省略してしまったことを非難しています。科学は、実証性に固執する限りでは、いわば悟性的な知にとどまり、自身の前提している立場を否定してさらなる体系を肯定的に構築していく「思弁speculation」を放逐してしまいます。厳格な実証主義は、観察された事実を記述・説明するかもしれませんが、特殊なる事例から想像的に飛躍し一般化する思弁の余地を含んでいないのです。

これに対してホワイトヘッドは、「発見の真の方法は、飛行機の飛行のようなもの」(PR 5)であるといいます。すなわち、観察できる特殊な経験の地面から出発して、希薄な空気の中で想像的な一般化の飛行をし、合理的な解釈によって明確にされた新たな経験へと着陸します。想像的思考は首尾一貫していないこととの戯れであり、直接的に観察されるものとは首尾一貫しないのが常ですが、直接的に観察される諸事実と、それらと首尾一貫していないものとが想像力において比較されることによって、観察される経験の諸要素に新しい光が投ぜられます 。科学においても思考実験がしばしばなされるように、想像的思考は、科学の方法においても哲学の方法においても、観察される経験的事実に劣らない重要性をもつと考えられます。

一方で経験的な事実に立脚することを肯定し、他方で想像的な飛躍を肯定する方法論としてホワイトヘッドが提唱するのが「思弁哲学」です。『過程と実在』の序文では、「思弁哲学の不信」(PR viii)を払拭することがこの書の試みの一つとして挙げられており、第I部「思弁的図式」第1章「思弁哲学」の冒頭では、「この連続講義は、思弁哲学についての試論として立案されている」(PR 3)と宣言された上で、次のように定義されています。

思弁哲学とは、我々の経験のあらゆる要素が、それによって解釈されうるような、一般的諸観念の整合的で論理的で必然的な体系を組み立てる努力である。この「解釈」という概念で私が意味するのは、我々が享受したり知覚したり意志したり思考したりしたときに我々が気づくものはすべて、一般的図式の特殊な事例という性格をもつべきだ、ということである。したがって、哲学的図式は、整合的で論理的であり、その解釈に関しては、適用可能でかつ十全であるべきである。(PR 3)

ここで「整合性coherence」とは、「図式がそれによって展開される基礎的諸観念が、相互に前提しあっていて、孤立するならば意味を失ってしまうこと」を意味しており、如何なる存在も宇宙の体系から完全に分離されては把捉されえないということが前提されています。また、「論理的logical」は、矛盾を含まないこととか推論の諸原理に則っていることなど、論理的という言葉の通常の意味を含んでいます。「適用可能applicable」は「経験の諸事項がこれこれと解釈できること」を意味し、「十全adequate」は「そのような解釈が不可能な事項は存在しないこと」を意味しています 。

この一節には、上でみてきたホワイトヘッド哲学の方法論が集約されて表現されているといえるでしょう。一方で「整合的」と「論理的」は思弁哲学の合理主義的な側面を表しており、ローウェル講義から主張されているように、合理性にもとづいて形而上学体系が構築されねばならないことが表明されています。他方で「適用可能」と「十全」は思弁哲学の経験主義的な側面を表しており、形而上学体系は、経験の諸要素がその特殊な事例となるような一般的諸観念の図式であるということが表現されています。ホワイトヘッドは、一般化の際には想像的思考による思弁が必要であるといって厳格な実証主義を批判していましたが、単に観照的な形而上学にも批判的であり、形而上学は経験による例証を必要とし、経験的諸要素と結びつきながら合理的体系を目指すものでなければならないと考えています。形而上学体系の構築には、合理主義的な側面と経験主義的な側面の両面が不可欠なのであり、特殊な主題から一般化し、その一般化されたものを想像的に図式化し、そして適用されるべき経験とその図式とが新たに比較されることによってこそ、自己正当化する思想の発展が達成されます(PR 16)。思弁哲学とは、このような仕方でより一般的な諸原理を見出していく「前進progress」であり、経験的な諸要素をその例証としてもつような合理的な体系を構築しようとする絶え間ない「努力」なのです。

このように提示されるホワイトヘッド哲学の論理が、合理性だけを重んじるような理性の論理でないのは明らかでしょう。彼は、言語に過度な信頼を置いていないばかりか、『科学と近代世界』では、古代の哲学者たちは明晰な頭脳をもっていたがあまりにも思弁的過ぎたといって、古代ギリシア人たちの観照的過ぎた態度を非難しています(SMW 15; cf. PR 11ff.)。形而上学の自己正当化には経験的事実による例証が不可欠であり、ホワイトヘッドのいう思弁は、観照的な理性というよりもむしろ想像力に基礎を置いています。彼の思弁哲学は、論理学や理性の自己展開のようなものではなく、経験的要素と分かちがたく結びついた図式論として特徴づけるのが適切です。

実際、『過程と実在』の方法論が論じられる第I部の表題は「思弁的図式The Speculative Scheme」であり、第1章「思弁哲学」に続く第2章では、「範疇的図式The Categoreal Scheme」という表題のもと、体系の論理的骨格が提示されています。そこで提示される4つの範疇、「究極的なものの範疇the Category of the Ultimate」「現存の範疇the Categories of Existence」「説明の範疇the Categories of Explanation」「範疇的制約Categoreal Obligations」は、『過程と実在』の基本的な論理の枠組みを表示するものですが、それらは、論理学の判断表などから導出されるものでもなければ、カントの純粋悟性概念のように経験から独立のものでもありません。むしろ、経験から一般的図式が見出され、経験のうちにこそその図式の例証が見出されます。『過程と実在』の序文では、この書を刊行するにあたってホワイトヘッドの心を占めていた強い印象の一つとして、「哲学的建設の真の方法は、なしうる限り最善の諸観念の図式を形作ることであり、逡巡することなくその図式によって経験の解釈を探求することである」(PR xiv)ということが挙げられています。『過程と実在』の思弁哲学の試みとは、個別諸科学の扱う経験的事実を含めあらゆる経験の要素を解釈しうるような一般的諸観念の体系的図式を構築する試みなのです。ホワイトヘッドによれば「哲学の重要性は、そのような図式を明確化しようとする不断の努力のうちにあり、その努力によって批判と改善をなしうる」(PR xiv)。

しかしながら、思弁哲学が体系的図式を構築する試みだとしても、その図式あるいはそれを構築する努力としての方法自身は、何らかの仕方で正当化されるものなのでしょうか。一般的な諸原理を見出していく努力・前進である以上、構築される図式はいつも不完全で途上のものになるでしょうが、それは一体どういうことなのでしょうか。次節では、この点について考察しましょう。

2.哲学と経験
―宇宙論と形而上学、科学と哲学の違い―

ホワイトヘッドは、事実は端的に実在すると考えていた一方で、単なる裸の事実というものはなく、事実は理論や解釈と不可分であると考えていました。思弁哲学の方法は、「整合的」と「論理的」が合理主義的側面で、「適用可能」と「十全」が経験主義的側面であると区分されますが、両側面は完全に分離されるべきものではありません。

ホワイトヘッドによれば、これら両側面は「十全」という用語の説明に含まれる曖昧さを除去することによって結びつけられるといいます(PR 3)。「十全」とは図式によって解釈できない経験の要素の項目がないことであり、ホワイトヘッドは、直接的な事実的事柄と関わるものに限定されるのであれば、哲学的図式は、それ自身のうちに、あらゆる経験に行き渡っているそれ自身の普遍性の保証をもつという意味で、「哲学的図式は必然的necessaryであるべき」(PR 4)だと主張します。

ホワイトヘッドの哲学の試みとは、必然的な合理的体系を構築することであり、思弁哲学を規定するときに用いる「努力」や「前進」という言葉では、思弁哲学が目指す何らかの必然的な図式が指し示されていると思われます。実際、ホワイトヘッドは、一般理論の例証として本質的に示すことのできない要素が経験のうちに見出されなくなることが合理主義の希望hopeであり、形而上学を含めてすべての科学の探求の動機を形成する信念faithであるといっています(PR 42)。

しかし「努力」や「前進」という言葉は、そうした希望が完全に達成されることはないことを含意し、終極的な必然的図式が実現されることがないことをも暗示しています。ホワイトヘッドは「哲学的図式は必然的であるべき」だと考える一方で、哲学的探求をどこかで線引きして得られる図式を究極的なものとして仕立て上げるようなことを独断的だとも考えていたようです。『理性の機能』では、しばしば科学においては、「厳密な範囲内でしか真でないような諸結論が虚偽の普遍性fallacious universalityへと独断的にdogmatically一般化されてきた」(FR 27)と論じられていますが、このことは科学に限らず哲学についてもあてはまります。ホワイトヘッドの思弁哲学が必然的で合理的な体系的図式の構築だったのは疑いありません。ですが、自身の体系的な図式を究極的なものとみなして独断論へと堕するのを警戒し、自身の哲学の方法論をあくまでも「試み」や、「努力」、「前進」として言い表していたのでしょう。

上で言及した合理主義の希望についてもホワイトヘッドは、それは形而上学的前提ではないと述べています。すべての形而上学体系には不完全性がつきまとい、我々はその希望を失うことに開かれていると言うのです。この点についてホワイトヘッドは、テイラーの著作の以下の箇所を引用しながら、理論がそれを理論化するところの素材として「『与えられた』要素」が存在し、「宇宙におけるすべての要素を『理論theory』によって説明できるという主張には限界がなければならない」と述べます(PR 42)。

現実世界においては、常に「理論」を越えてその上に、理由づけられることなく、単に所与として受容される「単に与えられたもの」とか「生の事実brute fact」という要因がある。単に与えられたものに決して黙従せず、それを、合理的法則によって、何らかのより単純で初期の「所与」の結果として「説明」しようとするのが、科学の仕事である。しかし科学が、こうした手続きをどこまでも推し進めようとも、それは常に事物の説明において、単に与えられた生の事実の何らかの要素を保持すべく余儀なくされる。時に不条理surdとか非合理と呼ばれてきた、こうした所与の要素の自然のうちでの現前こそが、ティマイオスが必然性についての表現において人格化しているように思われるものである。(PR 42)

これに続けてホワイトヘッドは、プラトンは、宇宙におけるすべての要素を「理論」によって説明できるという主張に限界があることを認めていたと言いつつ、「世界における『与えられた』要素を明晰に理解することがあらゆる形態のプラトン的実在論にとって重要である」と説きます(PR 42)。

ここには、整合的で論理的な体系の構築を目指しつつも、体系によって解釈されていない経験的要素がいつもあることを容認せねばならない状況があります。『過程と実在』で提示されている哲学は必然的な体系を企図して展開された哲学ですが、最晩年の著作『思考の諸様態』では、「哲学は何ものも排除することはできません。かくして、哲学は決して体系化から出発すべきではない」(MT 2)と警告されます。確かに、「我々の経験に充満する思考を扱ったり、利用したり、批判したりするためには、体系はどうしても必要である」(MT 2)。だが、「体系化の仕事が始まる前には、一つの先行する作業がある」(MT 2)。ホワイトヘッドはそれを「哲学の基本的段階」として「収集assemblage」と呼び(MT 2)、「我々があらゆる有限の体系に固有の狭隘さを避けようとするならば、まさに不可欠の作業」(MT 2)だといいます 。その作業は際限のないものですが、ホワイトヘッドは自らの哲学を完結した体系として閉じるのではなく、その体系によって未だ解釈されていない経験の要素を解釈しうるものとして開かれたままにしておかなければならないと考えていました。『思考の諸様態』では次のように綴られています。

……ジョン・スチュアート・ミルの精神構造は、彼が受けた特殊教育に制約されていたのであって、その教育は、有意味な経験の享受に先立って、彼に体系を付与していた。したがって、彼の体系は閉じられていた。我々は体系的でなければならない。しかし、我々は自分の体系を開いたままにしておくべきである。言い換えると、我々は体系のもつ諸制約に敏感であるべきなのである。ある漠然とした彼方というものがいつも存在し、その細部についての透察を待ち望んでいる。(MT 6)

哲学は、一方で必然的な体系的図式であるべきでありながら、他方でそれは開かれた体系としていつも改変を迫られている不断の努力でなければなりません。哲学のこうした2つの側面に注目するとき、形而上学としてのホワイトヘッド哲学と、宇宙論としてのホワイトヘッド哲学の対照が際立ってきます。ハーツホーンは、「ホワイトヘッドは、形而上学と宇宙論の問題にいかなる貢献をなしているのであろうか」という問題を考察するに際して、「形而上学」を「実在の必然的で永遠的な、まったく普遍的な、諸相を捉えようとする学」と規定し、「宇宙論」を「形而上学と科学的知識とを結合し、現在置かれている自然の持つ特性を広範囲にわたってかなり普遍的に認識しようとする試み」と規定しています 。この概念規定からすると、形而上学は厳密な学でありうる一方で、経験的事実に対して開かれ、それによる例証を必要とすることによって、常に体系が瓦解する可能性に開かれてもいるでしょう。体系とは相容れない事実が発見された途端に、その体系の厳密な合理性は(少なくとも一時的に)維持されなくなります。これに対して「宇宙論」は、厳密な学にはなりえませんが、経験的事実に対して開かれそれを包容する力動的体系です。

『過程と実在』は形而上学の書として読まれることが多いのですが、その副題は「宇宙論についての試論」であり、ホワイトヘッドの哲学は当時の最先端の自然学をもとに構築された宇宙論でもありました。もともとの過渡期ホワイトヘッドの目論みも宇宙論の再構築なのでした。しかも、今日では宇宙論といえば主として宇宙物理学を指しますが、ホワイトヘッドの宇宙論とは、物理学はもちろんのこと、生物学や生理学、心理学といった諸科学を包括するのみならず、互いに影響を与えあうものとして美学や倫理学、宗教といった種々の論題をも包括する学です。『科学と近代世界』の序文には、「人間が興味をもつ様々な事柄で、宇宙論を暗示すると同時に宇宙論から影響を受けるものは、科学、美学、倫理学、宗教である」(SMW vii)と記されています。プラトンの『ティマイオス』では、今日でいう宇宙物理学や生物学、生理学、さらには理性や魂を題材として宇宙論が語られているように、そしてまた、その宇宙論が後世の哲学・思想のみならず、美学や倫理学、宗教、神学に多大な影響を与えてきた通り、元来、宇宙論はあらゆる学と相関しています。各時代において暗黙裡にでも想定されている宇宙論は、人間の実存や神を我々がどのように捉えるかに本質的な影響を与えているのであって、哲学はその時代の宇宙論との相関の中で成立しているのです。

ホワイトヘッドは宇宙論の批判が哲学の役割の一つだと考えていました。『科学と近代世界』の序文では次のように述べられています。

哲学には、その役割の一つとして、諸々の宇宙論の批判がある。事物の本性についての様々な直観を調和させ、作り直し、正当化することがその役割である。それは究極的な諸観念を吟味せよ、また宇宙論の図式を形づくるに際して証拠の全体を保持せよ、と主張しなければならない。(SMW vii)

哲学の本質に批判を見出すこと自体は特に目新しいことではありませんが、ホワイトヘッドは批判を、諸科学と相関する宇宙論の批判として捉えていました。しかも、そのとき宇宙論が曝されている批判とは、経験的事実とは独立に機能する人間理性による批判などよりも、むしろ経験的事実あるいはそれらを図式化した諸科学にもとづいた批判です。『理性の機能』によると、「[思弁の]織り成し自体は規律を必要とする。それは、その時代の一般的事実と何らかの関係を維持していなければならない」(FR 76)。宇宙論的図式が類概念を表示すべきである一方で、個別科学の特殊な図式はその類概念に対する種概念であるべきであり、宇宙論は「規律なき単なる想像の逸脱を抑える」(FR 76)。科学の特殊な図式は宇宙論の一般的図式と適合するか、あるいは事実との一致に訴えてなぜ宇宙論が修正されるべきかの理由を提示するかしなければならないのであり、「宇宙論と諸科学の図式は互いに相手の批判者となる」(FR 77)。今日の個別科学がそうであるように、諸科学は経験的事実を詳細に調べ上げそれらを説明する図式を構築していきます。しかし諸科学の専門性が高まるにつれて他の分野との相関関係が覆い隠されたり粗野になったりするため、個別科学の図式は、どの分野においてもその例証を見出すような普遍的な諸観念の図式体系とはなりえません。それに対してすべての科学を包含する宇宙論は、そのような普遍的な諸観念の図式体系です。諸科学の図式は宇宙論の図式に適合しなければなりません。ですが、宇宙論の図式が、経験的事実にもとづく諸科学の図式と齟齬をきたすのであれば、宇宙論の図式の方が修正を強いられます。諸科学を包含する宇宙論が、諸科学の図式の批判に曝され修正されていくという意味では、宇宙論は自己批判的な力動的体系であるともいえます。

このような宇宙論は科学との相関の中だけで存立するものではなく、宗教的関心、道徳的関心、美的関心、歴史的関心など、あらゆる分野に開かれた力動的体系でなければなりません。確かにホワイトヘッドは、「美的、道徳的、宗教的関心を自然科学に起源をもつ世界概念に関係づけるような観念体系を構築することは、完全な宇宙論の目的の一つでなければならない」(PR xii)とも述べるように、宇宙論的体系を第一に「自然科学に起源をもつ世界概念」に関係づけて構築しようとしていましたが、自然科学以外のあらゆる分野の論題をその例証としてもつような体系の構築こそが究極的な狙いでした。

したがって、宇宙論的な図式体系がその例証とする経験的要素は、自然科学の対象であったり人文科学の対象であったり、あるいは我々の美的経験や倫理的経験、宗教的経験であったりするのであり、ホワイトヘッドは、あらゆる分野に適用可能な一般性をもつ思弁的図式の構築こそ哲学の主要な務めであると考えていました(cf. PR 9, SMW 158)。

哲学が無力さの汚名から解放されるのは、それが宗教や科学―自然科学であれ社会科学であれ―と密接に関係することによってである。哲学は、両者すなわち宗教と科学を、一つの合理的な思考の図式に接合することによってその主要な重要性を達成する。(PR 15)

つまり、思弁哲学の図式体系がその例証とする経験的要素とは、一方では例えば自然科学が扱う自然の経験的事実なのですが、他方では宗教的経験のような我々の具体的経験なのです。無論、両者は別々の実在世界に属するわけではありません(cf. PR 16)。科学は、我々自身を世界における存在とする側から経験的要素を図式化しているのに対して、哲学は、我々自身の生きられた個別的で具体的な経験の側から経験的要素を図式化しているのです。

ですが、本章第2節でみた通り、科学は我々の直接経験によって基礎づけられるのですから、この意味では、クリスチャンも指摘するように 、我々の具体的経験の方がより基本的な経験的要素でしょう。科学が、具体的で直接的な経験を抽象し分析・分類することによって一般的に図式化するのに対して、哲学は、分類することが不可能なほどに一般的な論題を扱い、個別的で具体的な現実を言葉によって表現しようとします。経験的要素を一般化し図式化していく点では科学も哲学も同類だと前節では述べましたが、哲学の課題は「分析と現実との融合を示すこと」であり、この点において「哲学は科学ではない」(ESP 113) 。

ホワイトヘッドによれば、我々の与件は、「我々自身を含んでいる現実世界」であり、「直接経験の解明が如何なる思想にとっても唯一の正当化であり、思想の出発点は、この経験の構成要素の分析的観察である」(PR 4)。ここでいう経験は、近代哲学における感覚与件の経験などではありません。ホワイトヘッドにとって「有機体の哲学」は、主客の対立や感性‐悟性‐理性の区別が生じる以前の原初的経験へと遡って、実践とも結びつけながら、我々の経験のあらゆる要素を解釈しうるような体系的図式を構築する試みでした。その哲学が図式化している経験の要素とは、我々が直接経験する要素すべてなのであって、『観念の冒険』の以下の記述はこのことをよく言い表しています。

経験の無限に多様な構成要素を分類しうる主要ないくつかの範疇を発見するためには、我々は、生起のあらゆる多様さに関係する証拠に訴えなければならない。何ものも除外することはできない。泥酔の経験としらふの経験も、眠っている経験と目覚めている経験も、うとうとしている経験とすっかり目をさました経験も、自己意識的経験と自らを顧みない経験も、知性的経験と物理的経験も、宗教的経験と懐疑的経験も、不安な経験と心配のない経験も、予期的経験と内観的経験も、幸福な経験と嘆き悲しむ経験も、情緒に支配された経験と自己を抑制した経験も、光における経験と闇における経験も、正常な経験と異常な経験も。(AI 226)

正常なものであれ異常なものであれ、我々が経験するものは何でも除外してはならないという態度は、同時代のジェイムズの「根本的経験論radical empiricism」と符合するものです。根本的経験論とは、ジェイムズが自らの経験論をヒュームらの伝統的な経験論と区別して称した経験論であり、「根本的」とは、「その理論的構成において、直接に経験されない如何なる要素も認めてはならず、また、直接に経験される如何なる要素も排除してはならない」 という徹底した姿勢を言い表しています。ホワイトヘッドの哲学が合理主義的であるだけでなく経験主義的でもあるのは、ジェイムズの根本的経験論が経験論であると呼ばれるのと同じ意味でそうなのです。たとえ非合理だと思われる神秘経験も、思弁哲学の図式がその事例として保持すべき経験の要素であると考えられます。『思考の諸様態』の最終章「哲学の目的」では、「神秘主義は、まだ語られていない深みへの直接的洞察である」と述べられたあと、次のように綴られています。

しかし哲学の目的は、神秘主義を合理化することであり、それも神秘主義を言い逃れることによってではなく、合理的に調整された新しい言葉の性格づけをもたらすことによってである。
哲学は詩に似ている。両方とも我々が文明と呼んでいる究極的な良識を表現しようとしている。いずれの場合も、言葉の直接的な意味を越えて形成することに言及している。詩は韻律に、哲学は数学的パターンに結びついている。(MT 174)

哲学は、具体的な直接経験へと遡りそれを言葉によって表現しようとします。ですが、その表現は直接経験そのものではなく、それが表現されたときには、既にその直接経験の豊饒さが少なからず失われています。科学が経験を抽象し分析していくのに対して、哲学は、より具体的なものへ迫っていくのではありますが、哲学が直接経験を合理性のもとで表現する限りでは、直接経験そのものには至れません。ちょうど詩が、具体的経験の豊饒さの幾分かを失いつつもそれを活き活きと表現しようとするように、哲学も、本来は語りえない具体的経験を言葉によって指し示そうとしています。ホワイトヘッドが諸著作の中でしばしば詩を引用するのも、我々の具体的で直接的な経験を指し示すためでしょう 。ホワイトヘッドは広大な哲学体系を築きあげたが、単に抽象的な事柄を記述しているのではなく、最も具体的なものをその哲学によって示唆しようとしているのです。

以上、ホワイトヘッド哲学の方法論について分析・考察してきました。哲学はもちろんのこと、科学や、宗教、歴史といった種々のテーマにおいて与えられる事実を体系に先立つ経験的要素としてもち、多角的に論じることによってホワイトヘッドの哲学体系は形成されました。プラトンの哲学から介在する約2000年の歴史の中で生じた諸変化を踏まえて「有機体の哲学」を新たに構築するとはそういうことでしょう。ですが、与えられる題材は様々であるにしても、ホワイトヘッドの哲学は、各分野で扱われる論題を一般的に図式化するものでした。科学が扱う自然の事実も我々の具体的経験もその例証としてもつような体系的図式を構築することが思弁哲学の試みであり、ホワイトヘッドの哲学自体が、そのような体系的図式として構築されたのです。

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