1.序章

最も難解な著作として知られるホワイトヘッドの主著『過程と実在』を読み解き、解説します。

(現在、執筆中)

 

  1. 「究極的なものの範疇」
    ―創造活動、一、多―

 

『過程と実在』でホワイトヘッドは、「究極的なものの範疇」に「一one」と「多many」と「創造活動creativity」を挙げ、「これら3つの概念は究極的なものの範疇を完結し、より特殊な範疇すべてに前提される」(PR 21)と述べている。他の諸範疇(「現存の範疇」「説明の範疇」「範疇的制約」)とは異なりこの範疇は“the Category of the Ultimate”と定冠詞付きとなっている通り、「一」「多」「創造活動」の3つは、不可分な連関をなしている。特に創造活動は、「離接的に宇宙である多が、それによって、連接的に宇宙である一つの現実的生起になる究極的原理」(PR 21)である。

創造活動により多が一になって生じる現実的生起は、それ自身、一つの新しい存在であると考えられ、ホワイトヘッドは次のように言う。

 

「創造活動」は新しさnoveltyの原理である。現実的生起は、それが統一する「多」のうちの如何なる存在とも異なる新しい存在である。かくして「創造活動」は、離接的に宇宙である多の内容に新しさを導き入れる。「創造的前進」は、創造活動が作り出すそれぞれの新しい状況に、創造活動というこの究極的原理を適用したものである。(PR 21)

 

この箇所が端的に示している通り、創造活動とは新しい存在を作り出す働きであり、一や多と三位一体をなして、ホワイトヘッド哲学において「究極的原理」と考えられるものである。

だが、ホワイトヘッドは「究極的なものの範疇」でこのように述べる一方で、別の箇所では、創造活動は「あらゆる形相の背後にある究極的なもの」(PR 20)であり、「諸形相によっては説明できない」(PR 20)とも言っている。序論でも述べた通り、ホワイトヘッドは、「直接的な現実的経験の究極的事実は、現実的存在、抱握、結合体である」(PR 20)と述べているが、「事実の限定性はそれの諸形相によっている」(PR 20)。これら3つさえも、最も具体的であるがゆえに他の何ものによっても説明できないのだが、創造活動はさらに、限定された事実を作り出す働きとして、諸形相によっては説明できない「究極的なもの」だと考えられるのである。

したがって創造活動とは何々であると規定することはできないのだが、そうとはいえ、それが「新しさの原理」とも言い換えられることに注目すれば、ホワイトヘッドが創造活動によって指し示そうとしていた事柄を理解できるのではないか。すなわち、「新しさ」の解明を通して、ホワイトヘッド哲学における「究極的なもの」に迫っていけるのではないか。

本章の第2節から第5節までは、現実的存在、抱握、結合体のうち、特に「究極的実在」とも呼ばれる現実的存在の生成に注目し、新しい存在の生起および創造活動について論じていく。現実的存在は、第5節で論じる通り「自己創造的被造物」とも呼ばれ、創造活動によって作られる存在であるとともに、新しい存在を作る働きでもあり、ホワイトヘッド哲学における創造活動は現実的存在との関連において理解されるのである。

次いで第6節からは、抱握や結合体に重点をおいて考察していきたい。従来、ホワイトヘッド哲学の研究は主として、現実的存在およびその生成に関心が向けられてきた。確かに現実的存在は、存在するあらゆるものがそれに対して必ず言及されねばならない究極的実在であるのだが、『過程と実在』では、「直接的な現実的経験の究極的諸事実」を示すのに、現実的存在と並列的に抱握と結合体も挙げられているのであった。現実的存在は、“actual”という言葉によって現実の生成を含意する一方で、あくまでも存在するもの、すなわち“entity”に関わる用語である。それに対して結合体や抱握は、「有機体の哲学」における関係を表現する用語であり、「現存の範疇」によれば、抱握は、「関係づけられてあることの具体的事実」であり、結合体は、「公共的な事実的事柄」である(PR 22)。「究極的なものの範疇」では、「様々な種類の存在が何らかの一つの現実的生起に『共在』する、様々な特殊な仕方を包含する類的な用語」として「共在together」という言葉が使われている通り、創造活動は、現実的存在との関連においてだけでなく、抱握や結合体との関連において理解されねばならないと思われる。現実的存在、抱握、結合体という「直接的な現実的経験の究極的事実」の考察を通じてこそ、創造活動の内実が明らかにされるだろう[1]

 

 

  1. 新しい存在の生起に含まれる問題
    ―ホワイトヘッド哲学における生成と存在の交錯―

 

ホワイトヘッドの哲学は「プロセス哲学」とも呼ばれるように生成や過程という側面が強調されがちであるが、それは決して無差別な流動のみを認める生成一元論であったわけではなく、あるまとまりをもった個別的な生成の終息と、その終息による新しい事実的存在の生起も認めていた。本節では、ホワイトヘッドの後期哲学体系における生成と存在の交錯を概説し、そうすることによってその哲学において新しい存在の生起がどのように捉えられているかを確認しておきたい。

『過程と実在』以降[2]の「有機体の哲学」において生成の過程は諸々の「感受feeling」が成長していく過程として描かれる。感受という用語は、英国ヘーゲル主義者であるブラッドリーや、純粋経験論の提唱者であるジェイムズによって既に使われており、両者とも、基体的実体である主体がまず存在しそれが外的事物を経験するといった考えを否定し、むしろ主と客が分かれる以前の原初的な経験を指してこの言葉を使っていた。ホワイトヘッドのいう感受も主客の区別や意識の成立以前の原初的経験であり、この用語は彼らの用語を継承している[3]。意識を含む知覚や判断などの知的な働きは、無数の感受の大海から機能として現出してくるとされ、種々の機能が現出してくる生成過程を発生論的に分析することが『過程と実在』の主題の一つをなしている。

感受の成長の分析は、発生論的に高次の相である知的な働きの成立の分析に限定されているわけではない。例えば生成過程の初期段階で与件を物的に感受することも一つの感受であるし、ブラッドリーやジェイムズが感受という用語を主として人間経験について用いたのに対して、ホワイトヘッドは、自然現象をも説明できるような普遍的な用語としてこの語を用いている(cf. AI 231f.)。物理学者・化学者のプリゴジン(1917-2003年)は、ホワイトヘッド哲学に啓発されつつ、非平衡系における自己組織的な秩序形成を散逸構造理論において定式化したが[4]、そもそもホワイトヘッドの感受の成長の分析自体にこうした事例の分析が含まれている。つまり、「有機体の哲学」において感受は、人間経験も自然現象も包摂することができる普遍的な用語であり、生成過程は、諸々の感受が絡みあい有機的に組織化されていく過程として分析されるのである。

この過程は、与件を単純に物的に感受する相や、その与件を概念的に評価する相、諸々の与件から本質を抽象する相など、種々の相に分析される。これら諸相の分析はそれ自体重要な研究対象であり、あとの節で詳しく考察していくが[5]、以下でまず議論したいのは、そうした生成過程が最終相において終息し新しい一つの事実が生起することについてである。

生成過程は、種々の相をもつとはいえ、全体としては、可能態から現実態への変遷、不確定から確定への変遷であるといえる。それは、要素として何であるか規定されていない不確定な感受の大海から、両立しうるものの選出とそれらと両立しないものの排除を通して、諸要素からなる関係をシステマティックに自己形成する過程であり、全体として一つの確定した新しい現実的事実がもたらされる過程である。『科学と近代世界』では、意識が成立する以前の非認識的把握が抱握と呼ばれるようになった。『過程と実在』以降の著作では、生成過程において両立しない要素を排除する作用が「否定的抱握negative prehension」と呼ばれるのに対して、両立しうる要素の選出としての作用は「肯定的抱握positive prehension」と呼ばれる。感受とは、この肯定的抱握のことである。これら表裏一体の否定的抱握と肯定的抱握を通じて生成過程は進行し、その結果、一つの確定的な現実的事実が生じる。一つの現実的事実が生じるまでの過程は特に「合生concrescence」の過程とも呼ばれ[6]、また、生成の最終相は「満足satisfaction」と呼ばれる。

満足は、不確定が確定する最終相であることによって、他の諸相とは異なる特異性をもつ。一方でそれは生成の過程内からみるならば諸々の感受が向かう終着点である。仮に生成の最終相から当の生成過程を俯瞰できるとすれば諸々の感受はその満足を目指していたといってもよく、生成過程では、その個別的な達成へと諸々の感受を誘う「主体的指向subjective aim」が働いているとされる。ホワイトヘッドは基体的実体としての主体概念には批判的であったものの、諸々の感受を綜合統一して自己実現する働きを主体的とも形容しており、満足はこの意味での主体的な過程を引きつける目的因であると考えられる。

だが、他方で満足は生成過程の最終相として「一つの複合的な十全に決定された感受」(PR 26)である。それは、自らの達成と同時に当の生成が終息してしまっている相であり、可能性が費やされてもはや改変されない確定した事実が生起する相でもある。ホワイトヘッドは、不変的な基体としての主体subjectを否定する代わりに、諸々の感受が目指し越えていくところのものを「超越体superject」と呼び、その転換点をもつものを、個別的な生成が終息して実現される存在entityとする。何か主体がまずあって与件を感受したり目標を目指したりするのではなく、むしろ逆に諸々の感受が相互に条件づけあいながら自己形成がなされ超越体が作られるという逆転の発想に独自性がある。この超越体は、限定された形をもち、何であるか規定できる実在realityなのであり、ある個別的生成の終息を外的なものとする他の個別的生成にとっては、既に生起した確定的事実である与件として感受される。生成過程の最終相であるはずの満足は、ここでは確定された事実的存在なのである。

ホワイトヘッドはこうした満足を介した生成と存在の律動的な進展の中に新しさへの創造的前進をみる。生成は超越体を目指し自己実現する過程であり、存在への途上にある過程といってもよい。それは満足の達成とともに消滅するが、その所産として超越体が実現される。超越体は、実在的な可能性real potentialityとして過去に沈殿し、客体的与件として次なる他の生成のうちで感受される。さらに、その生成は過去の客体的与件を内在せしめるも消滅することによって超越体となり、こうして主体‐超越体‐主体……という連鎖が紡がれていく。主体と超越体は実のところ分離されえず、主体という用語を使うときはいつも「主体-超越体」の省略形だとされ(PR 29)、主体と超越体、生成と存在の交互連関において絶えず新しさの実現があると考えられる。

ところで生成の過程内における各相の感受は、機能としての相違はあれ、発生論的な過程の感受としては同じ身分であるから、分析の難しさはあるとしても本質的な不連続性があるわけではない。しかし、主体と超越体、生成と存在は概念の定義上、相対立しており、不確定な生成過程から確定した事実への転化は、生成の過程内における諸相の区分とは異なる断絶を含んでいるのではないか。

既述の通り、生成は、可能的な諸要素のうち、両立しうるものの選択と、それらと両立しないものの排除を通して、不確定な感受の大海から確定的な事実的存在が生起する過程である。その可能的な要素には、過去に生成を終えて超越体となった実在的な可能性の要素と、現実的世界に未だ実現されたことのない純粋な可能性pure potentialityの要素があると考えられる。ホワイトヘッドは生成が終息する条件の一つとして、それら可能的要素の選択・排除の完結を想定している。生成途上にあり改変の余地があるものは未だ事実とはいえないのであって、現実的な事実が事実たるには改変できない確定性をもっていなければならない。逆にいえば、一切の可能性がくみ尽されるとき生成過程は終息し、改変できない一度的な存在が他ならぬそれとして実現されると考えられるのである。

したがって、もし仮に生成過程を全体として俯瞰できるとしたら、生成は、可能的な諸要素のうちから、最終的に生じる関係の構成諸要素を選び取っていく過程であることになろう。実際、次節以下でもみるように、ホワイトヘッドは矛盾する要素からなる現存を認めなくするような可能的な一般的諸条件への適合を要求している。

しかしこのことが、何か予め用意された確定的なプランに生成過程が従っていることを意味するならば、ホワイトヘッドの意にそぐわない。その場合、生成過程を整序できる何らかの理念的視点が先取りされ、生成の不確定性は、結局のところ、全体のプランに解消されるべきまやかしに過ぎないことになろう。生成過程を一つの有機化するシステムとみるならば、プランはその形相としての全体であり、構成要素の諸部分は全体のうちに解消されてしまうことになろうが、部分を従属させるような全体論は英国ヘーゲル主義への反動とともにホワイトヘッドが忌み嫌ったものであった。「有機体の哲学」はあくまでも個別的な生成を認め、不確定な自己形成過程からの確定的な存在の生起を主張する。

では、同じことを生成の過程内からみればよいかといえば、事はそう単純ではない。確かに生成の過程内からみるとしても、様々な可能性のうちいくつかを選択し他の可能性を排除していくということに変わりはない。生成過程は排除を伴う選択を通して諸要素を綜合していく過程である。だが、諸要素を綜合していったとき、それらを統一する新しい存在が生起する最終局面で問題が生じる。例えば水は水素と酸素からできているように、新しくできる存在の構成要素は生成過程において綜合した諸要素から構成されようが、部分となる要素を足し合わせるだけでは本質的に新しい存在は生じえない。水素と酸素がもたない新しい質を水がもっているように、部分の総和は新しい質をもたらすわけではない。生成過程を俯瞰できる場合と違って、生成の過程内からみるときには新しい存在が生起する最終局面において困難に直面してしまうのである。

上では、生成過程を諸々の感受が絡みあい有機的に組織化されていく過程と特徴づけたが、過程が終息することによって新しい存在が生起することは、単なる自己組織化だけではなく創発という事態に深く関わっている。次節以下では、『科学と近代世界』よりあとの著作を中心に、ホワイトヘッドが新しいものの生起をどのように論じていったのかを考察することにしたい。

 

 

  1. 創発と永遠的客体論

 

創発とは、諸部分にはない新しい質が全体において発現する事象である。その新しい質はそれまでにはなかった質であり、一般に予見不可能だとされる。ホワイトヘッドは、『科学と近代世界』で、創発論の先駆者アレグザンダーの『空間、時間、神性』から影響を受けながら、自身の形而上学を構築した。もっともその影響とは、アレグザンダーの批判を通じた影響であり、むしろホワイトヘッドは、永遠的客体論によってアレグザンダーを乗り越えるのであった。本節では、永遠的客体論が『過程と実在』以降どのように展開されているかを追うことにしたい。

『空間、時間、神性』においてアレグザンダーは、時空の複合化を通して新しい現存が創発するという形而上学的な進化論を唱えた。その進化論によれば、時空を質料として、複雑性の低い下位の現存からより複雑な現存が生じる中で新しい質が現れる。すなわち、時空から物質が、物質から生命が、生命から心が創発して宇宙が進化するというのである。

しかしアレグザンダーの哲学には、創発における新しい質に関して未解決の問題があった。それは、質料である時空がいくら複合化してもそれは複合化した時空なのであって新しい質そのものが生み出されるわけではない、という問題である。これに対してアレグザンダーは、時空全体である世界には新しさへと向かう衝動があり、どの有限な存在にとってもそれ自身を越えた新しい質があると論じるにとどめた。下位の現存からみて新しい質は、時空を越えた未知の質として「神性」とも呼ばれるが、アレグザンダーは「自然への畏敬」という経験主義的立場にとどまり、自らの哲学は記述的であるといって新しい質の創発の説明を断念する。

ホワイトヘッドは新しさへ向かう衝動という考えに共鳴し、これを「神の原初的本性」と言い改めて自身の形而上学に取り入れた一方で、永遠的客体を認めることによってアレグザンダーと立場を異にしている。アレグザンダーがプラトンやピタゴラス派を批判して永遠的な形相を認めなかったのに対して、ホワイトヘッドはいわばプラトン的な形相である非時間的な要素を永遠的客体と呼び、そこに、創発が起こるための新しさの可能性を見出す。ホワイトヘッドは、アレグザンダーの哲学では新しいものの創発にとっての可能性としての関係性が十分に強調されていないと批判し(EWM 297)、創発が成立するのは、諸要素が関係性を形成するに際して様々な可能性があるからこそだと主張するのである。

永遠的客体論は前節で触れた可能的な一般的諸条件を形式的に説明するとともに、より単純な永遠的客体による複合的な永遠的客体の構成を認めることによって新しいものの創発の可能性を指し示す。創発はその本性上予見不可能であるにしても、例えば水素と酸素から二酸化炭素は創発しないのであって、創発が起きる際の可能的な諸要素の関係性には制約がある。そうした制約は、『科学と近代世界』では、永遠的客体の階層構造として形式的に説明されている[7]。その階層構造は創発からすれば制約である。だが、より単純な永遠的諸客体から形成される関係はそれ自体で一つの複合的な永遠的客体であり、それが限定性格として流動のうちに入り込むことによって新しい存在が創発するとも考えられる。つまり、過去に生起したものの総和によっては新しいものは生じえないが、複合的な永遠的客体はそれ自体一つの永遠的客体であり、階層構造をもつ永遠的客体の領域には現実的世界に未だ実現されたことのない要素が存していると考えられるのである。ホワイトヘッドは創発を完全に合理化するわけではないものの、経験的な創発的事実を受け入れるだけにとどまらず、永遠的客体論によって、現に創発するものの制約について形式的説明を与えつつ、創発において現れる新しさを複合的な永遠的客体に見出そうとしていたのである。

「有機体の哲学」において、創造は神の秩序づける働きに本質的に関わっている。『ティマイオス』では、生成して真には存在しないものと、永遠的な真に存在するものとが区別され、デミウルゴスは永遠的なものをモデルにして、混沌に秩序を与えることによって世界を作ったと語られた。ホワイトヘッドも、生成しない永遠的な形相を「プラトン的形相Platonic form」と呼んでもいる(PR 43f.)。もっとも、その語につきまとう様々な解釈から自身の用法を区別するために、それを永遠的客体と言い換えているが、神の本性は「永遠的客体の完全な直視」であるといい、そこに秩序づけの働きを見出す(PR 44)。すなわち、もし秩序づけがなければ永遠的客体は純粋な可能性としてAあるいはBあるいはC……といった具合にバラバラになり離接的になってしまうところ(PR 40)、神の原初的本性には秩序づけという機能があると考えられる。神の原初的本性は、ありうる可能性を抱懐し、価値の重要性に応じた選択・排除とともに、内的充実度intensityを高めるような仕方でそれらを秩序づけていくのである(PR 46)。

つまり、非時間的な形相である多なる永遠的客体は神の原初的本性によって連関をもち、両立しうる共在の実在的事実へと秩序づけられる。「『連関relevance』は、形相同士の共在togethernessのある実在的事実を表現しているに違いない」のであり、「どんな実在的共在も、現実の形相的構成formal constitutionにおける共在である」(PR 32)。この実在的な形相的構成において新しい複合的な永遠的客体がもたらされるのであって、「神の介在を離れては、世界には何ら新しいものはありえず、世界にはまったく秩序はありえないだろう」(PR 247)と論じられる。

この連関は時間的世界に実現されていないものの連関であって、既存の現実的世界に制約されていない現実性、すなわち「神の心」における連関である。だが、そう考えられる結果、原初的本性に関する限り神は非時間的であって、時空的に限定された世界のうちに直接的には存在しないことになる。テイラーは、神と異なり世界はいつも進化のうちにあり歴史をもつと『ティマイオス』を解釈していたが、逆にいえば神は世界と異なり進化のうちになく歴史をもたないということであろう。ホワイトヘッドも、神の原初的本性は永遠的客体を抱懐・直視することによって「与えられた歴史の経過given course of history」には直接的に関係づけられていないといい、「与えられた歴史の経過は、神の原初的本性を前提するが、神の原初的本性はそれ[与えられた歴史の経過]を前提しない」と述べる(PR 44)。

神の原初的本性のうちにある永遠的客体の形相的構成は、創発において現れる新しさ、およびある創発が生じるための制約について形式的説明を与えるのだが、前節でも触れた通り、ホワイトヘッドは予め永遠的な領域で合理的に構成された全体としてのプランが措定されてそれが生成過程を指導すると考えているわけではない。むしろ、永遠的客体がいくら完璧なシステムをなしたとしても、赤であるとか四角形であるといった規定だけでは新しい個別的な事実にはならないのであって、永遠的客体は個別的な事実へ自己限定する働きをもたないと定義される。

かくして、永遠的諸客体のなす関係性が様々にありうることは、新しいものの創発の可能性を指し示す一方で、却って、なぜ確定した事実が現に創発するのかという問題をもたらす。新しい存在の創発の問題は、可能性においては別様でありうるにもかかわらずなぜ現にある事実が生じるのかという形而上学的な問題でもある。

 

 

  1. 現実そのものの新しさ
    ―なぜこの事実が生起するのか―

 

様々な可能的な関係性があることは創発の条件の一つをなす反面、それだけではどの関係が優先するのか確定されず、別様でありうるにもかかわらずなぜこの特定の事実が生起するのかという問題をもたらす。より単純な永遠的客体から複合的な永遠的客体が構成され、その永遠的客体が新しい形として入り込むことで創発が生じるとしても、永遠的客体はその関係を実現する仕方が一義的ではないばかりか不活性だと定義されているからそれ自体で個別的な事実へと限定する働きをもたない。アレグザンダー哲学を批判して創発に対して永遠的客体論の形式的説明を与えた反面、ホワイトヘッドの哲学には、時空的に限定される実現と非時間的な永遠的客体との断絶が生じてしまっているのである。

第5章でみた通り、ヘーゲル主義に批判的だったホワイトヘッドは、『科学と近代世界』の形而上学構築時に、何か一般的なものの自己限定という考えへ逆戻りするのではなく、個別的な事実自体の自己限定という考えに歩を進め、その原理を「限定の原理」と呼んだ。それは、実現する個別的事実とそれにおける新しい質を担う永遠的客体とを媒介する原理である。

新しい存在の生起は突きつめてみればこの働きによると考えられるものの、ホワイトヘッドは、『科学と近代世界』では、「限定の原理」は「究極の非合理」でありそれ自体に理由reasonをもたないといっていた。事実を作るところの原理が形而上学的には必要であるが、何であるとかどのような構成をもつとか規定できるものは限定の所産として作られるのであって、それらを作り出すところの限定の働き自体に理由を与えることはできないからだという(SMW 178)。

また、『過程と実在』では、歴史の進化は、先行するものによる後続するものの限定を考察することによって合理化しうるといわれる一方で、次のように続けられている。

 

歴史の進化は合理化できない。なぜならそれは関与している諸形相のある選択された流れを示しているからである。例示されたのがなぜ諸形相のあの流れであって、むしろ別の流れではなかったのかについて、歴史に内的な理由をあてがうことはできない。どんな流れも内的に決定されているという性格を示すに違いないことは真実である。そこまでは存在論的原理から導かれる。しかし内的決定の全事例は、その流れをその時点まで想定するのである。内的決定の原理を示している別の流れがなぜありえないかの理由は何もない。現実の流れは単に「与えられ」ているという性格をもって現前している。(PR 46f.)

 

「有機体の哲学」において新しい存在は、先行する過去の諸存在を内的構成に含み限定されて創発すると考えられるが、この箇所は、諸要素の結びつきが別様でありえたにもかかわらず、なぜ特定の事実が他ならぬそれとして実現されるのかには理由がないことを言明している。

例えば、地球上に前生物的な化合物が誕生することを想定してみよう。生物が誕生する前の地球の大気が水素やアンモニア、メタン、水などの成分から構成され落雷によってα‐アミノ酸が生じたとするならば、新しい質をもつ現存であるα‐アミノ酸は既存の物質から創発したと説明でき、この限りで創発的進化は因果関係や構成の分析によって合理化できる。だが、別にβ‐アミノ酸が創発してもよかったのだから、創発した現存がなぜその構成成分をもち、またそれら構成成分の結合仕方がそれであったのか、ということには恣意性が入り込んでいる[17]

確かに、創発は非合理な事態だとしても、ある創発が生じるための制約を図式化することはできる。この例でいえば、α‐アミノ酸が生じやすい熱力学的な条件にあったとか、その周辺にα‐アミノ酸が生じる物質しか存在していなかったといった条件を科学は挙げることができるだろう[18]。これに対応するものとして『過程と実在』でも「範疇的制約」が挙げられている。前節で挙げた『科学と近代世界』の永遠的客体論も秩序に関する制約の形式的説明であるといえよう。経験的事実の例証を必要としつつ、そうした体系的図式を整合的・論理的に構築することは「有機体の哲学」の試みに他ならない。

しかしこうした制約的な諸範疇は、完璧ではない部分に対する永遠的客体のシステムを補完する原理であって、特定の事実が現に創発することを根拠づけるわけではない。それらは様々にありうる可能性を相対的に制限するのであって、確定的な事実がもたらされる詰めの一手とはならない。

別様でありえたにもかかわらず別の可能性を切り離して確定的な個別的な事実が実現されることの可能根拠が「限定の原理」である。それは『科学と近代世界』では「具体化の原理」とか「神」とも呼ばれているのであった。非時間的な形相的要素の永遠的客体は現実的なものに内在して新しい質を担うとはいえそれ自身は不活性である。これに対して現実的存在である神は永遠的客体と同様に非時間的でありながら自己限定する活性を伴った存在であると考えられる。神は永遠的客体すべてを抱懐しており、価値の重要性を直視して選択・排除し、新しいものを実現する。神とも呼ばれる「限定の原理」はそれによって新しい事実が作られるという点では新しさの原理なのであり、新しい存在が生起する創発の可能根拠なのである。

しかし、「有機体の哲学」においてこうした「限定の原理」は、何か現実的なものの背後にある超自然的な原理ではない。確かに永遠的客体やそれを抱懐する神は非時間的で自然を超越してはいるが、ホワイトヘッドは、現実的なものをまったく超越した神は我々によって決して知られえないとし、何ものとも関係をもたない外的な神を否定する。

むしろ「限定の原理」の限定とは個別的な事実自体の自己限定であり、「有機体の哲学」における現実actualityそのものである。それは単に可能性を相対的に選択・排除する限定ではなく、新しい個別的な事実を作るまさにその働きとしての限定である。永遠的客体が先にあって個別的な事実への限定があるのではない。永遠的客体は特定の現実に内在するのであって、存在論的に現実が可能性に先立つ。このことは『過程と実在』では「存在論的原理」と呼ばれる。

前節では、ホワイトヘッドは創発において現れる新しさを複合的な永遠的客体に見出そうとしたことを述べたが、このときにいう新しさとは、諸々の永遠的客体が複合して形成する秩序の類型の新しさ、およびその複合的な永遠的客体がもつ質的な新しさである。現代の創発理論が論じる創発における新しさもそのような新しさであろうし、ホワイトヘッド自身、“novelty”という用語をこの意味でしばしば使う[19]

しかしながら、新しい質は現実化されたものにおける永遠的客体の複合において現れるのであり、現実が可能性に先立つ[20]。そして現実は、それぞれが独自の内的構成をもつのであり、それぞれがそれ自体で新しい。その新しさは、第一義的には、普遍的な秩序の類型や普遍的な質の新しさではなく、存在そのものの新しさである。無論、存在そのものの新しさにおいて個々の存在は何らかの点で違いを含む唯一無二の存在であり、その内的構成としての永遠的客体にも何らかの差異がある。だが、ここで重要なのは、普遍の限定として現実が成立するのではなく、それぞれが独自の内的構成をもつ新しい現実がまずあるということである。もし新しさを普遍的な秩序の類型や普遍的な質として理解するならば、それをもつものは無数にあることになってしまう。この場合、個々の現実の存在はその普遍的な類型や普遍的な質の事例に過ぎず、各々の存在は新しいとはいわれない。普遍的な秩序の類型や普遍的な質の新しさが先行し、その限定として現実が成立するならば、差異をもたない同一のものが複数存在することになるが、存在そのものの新しさにおいては、それぞれが特殊で固有の新しさである唯一無二の存在が複数存在するということになるのである。

このような存在そのものの新しさは、特殊なものから一般的なものを見出そうとする科学的な思考からすれば、瑣末な新しさと思われるかもしれない。個々の存在の微妙な差異を抽象において覆い隠すからこそ、普遍的な秩序の類型や普遍的な質が見出される。だが、例えば個々の人間は何らかの差異を含む唯一無二の存在であるであろう。新しさを普遍的なものにおいて理解しようとすれば、個々の人間の差異は無視されてしまうが、個々人は、普遍によってはくみ尽せないのである。つまり存在の端的な新しさこそが、秩序の類型や質の新しさよりも根源的な新しさなのである[21]

さて、ここまでの考察から第2節で提示した問いにいったん回答を与えるならば、生成過程が終息し新しい一つの存在が生起することは、可能的な諸要素が選択・排除され、「限定の原理」における意味での限定の働きによって確定的事実が作られることである。新しい質は、その過程で綜合された可能的要素を成分とする複合的な永遠的客体が担っており、実現される特定の現存においてその新しさが現れるのである。ホワイトヘッドのいう新しさは、永遠的客体から構成される秩序の類型および質の新しさを指しもするが、第一義的には、普遍によってはくみ尽せない現実そのものの新しさである。

それにしても、こうした論述はいかにも形而上学的であり、「究極の非合理」としての「限定の原理」は、経験の背後にある超自然的な原理ではないにしても、ホワイトヘッドが合理的な探求をあきらめて半ば恣意的に要請した原理ではないか、とも思われよう。事実、『科学と近代世界』のローウェル講義をもとにした箇所では、「事物がどんなものであるかを単に述べるだけでも、事物がなぜ存在するかを説明する要素を含みうる」が、我々が明瞭に把握するものの周縁には漠とした背景が広がっており、「ある意味で、説明というものはすべて恣意的にならざるをえない」と語られていた(SMW 92)。

ここには、ホワイトヘッド哲学の方法論が本質的に関わっている。本論文の第I部でも述べた通り、『過程と実在』第I部「思弁的図式」の第1章では、この書で展開される哲学が「思弁哲学」であると宣言された上で、「思弁哲学とは、我々の経験のあらゆる要素が、それによって解釈されうるような、一般的諸観念の整合的で論理的で必然的な体系を組み立てる努力である」(PR 3)と定義されているのだった。ここで「解釈」という概念は「我々が享受したり知覚したり意志したり思考したりしたときに我々が気づくものはすべて、一般的図式の特殊な事例という性格をもつべきだ」(PR 3)ということを意味しているとされ、さらに第2章では体系の論理的骨格を示す「範疇的図式」が提示されている。ホワイトヘッドのいう形而上学とは、しばしば誤って理解されているような意味での形而上学、つまり経験の背後にある何か超自然的な原理を探求するような学ではない。むしろ徹底的に経験に定位し、それら直接経験の要素すべてを解釈し特殊な事例とするような一般的諸観念の体系的な図式を構築する試みである。

そうであれば、新しい事実の生起としての創発も一つの経験的事実である以上、形而上学的図式は創発をその例証の一つとして含んでいなければならないだろう。そしてまた、「限定の原理」も、困難を回避するために恣意的に要請された宙に浮いた原理ではなく、創発もその例証として含んで体系化された形而上学的図式における原理に違いない。しかも、創発という事態が合理化されない事態だとすれば、合理的な形而上学体系は、却って、創発を非合理な事態と記述しなければならないだろう。換言すれば、創発の可能根拠としての「限定の原理」を非合理なそれとして体系内に位置づけることこそが合理的な形而上学的記述ということになる。事柄の合理性と、形而上学体系の記述の合理性は別の事柄であり、図式を整合的・論理的に構築する形而上学は非合理な事態を非合理な事態として論じなければならないだろう。

このようにみてくると、「限定の原理」は、ホワイトヘッド哲学の存在論的側面と方法論的側面の両方が関与してくる点で特異である。形而上学体系は経験の要素を解釈するのであり、「限定の原理」は、過渡期において、そうした形而上学の体系化を通じて獲得された原理である。しかし、「限定の原理」によると、当の限定の働きによって経験的事実が新しく作られるのであり、形而上学的図式は、未だ合理化されていない新しい事実によっていつも改変を迫られている。仮に宇宙におけるすべての要素を解釈する形而上学体系ができたとしても、新たな事実が作られることによってその体系は脱構築されねばならないだろう。新しい事実が作られる以上、形而上学的な探求は、終わりのない「努力」であり「前進」なのである。

だが、『科学と近代世界』では、「究極の非合理」である「限定の原理」が合理的な形而上学的探求の限界として最終地点であるように論じられているものの、『過程と実在』以降では、新しい事実を作る働きにして、作られた事実そのものである現実的存在によって形而上学体系が構築されている。『過程と実在』で展開される体系は思弁的な図式体系であるが、現実的存在を抽象的な概念で説明しているのではなく、むしろ逆に、現実的存在を「究極的実在」とし、それを基本的用語として図式体系が記述されているのである。では、ホワイトヘッド哲学における現実的存在とは如何なるものか。次節では、この問いの考察を通じて、ホワイトヘッド哲学における新しさおよび創造活動を解明したい。

 

  1. 自己創造的被造物としての現実的存在と創造活動

 

「限定の原理」とも呼ばれる神はそれによって新しい個別的な事実が作られるという限りで新しさの根拠であり、時間的なものと永遠的なものの媒介である。しかし『宗教とその形成』において神は、「現実的であるが非時間的な存在」(RM 90)として位置づけられているし、第3節でみた通り、『過程と実在』でも、原初的本性に関する限り神は「与えられた歴史の経過」には直接的に関係づけられていない。また、新しく実現された存在における新しい質を担う永遠的客体も非時間的だと考えられていたが、ホワイトヘッドは一般的なものの自己限定を拒絶するのであったから、神は時間的なものと永遠的なものを媒介しているといっても、永遠的客体を限定して個別的な事実を作るわけではない。

ホワイトヘッドは神によって限定されるところのものを『科学と近代世界』では「実体的活動力」、それ以降の著作では「創造活動」と呼び、自身の形而上学体系における「究極的なもの」とする。すなわち神は、創造活動の限定を通じて、時空的に限定された新しい生起を作る。『過程と実在』で「新しさの原理」と呼ばれる創造活動は、『宗教とその形成』でも、「それによって現実的世界が新しさへの時間的推移の性格をもつ」(RM 90)と定義されているが、神がそれを限定してこそ、新しい存在が作られるのである。このとき神は、「それによって単なる創造活動の未決定性indeterminationが決定的自由determinate freedomへと転換される、現実的であるが非時間的な存在」(RM 90)である。

注目すべきは、ここで神は「非時間的な現実的存在actual entity」と呼ばれていることである。『過程と実在』で究極的実在とされる現実的存在の発展史的起源はここに見出せる。発展史を遡るとき、現実的存在という言葉は、『宗教とその形成』に初めて見出され、さらにその発想の起源は、『科学と近代世界』の「限定の原理」にあったのである。『過程と実在』でホワイトヘッドが現実的存在を説明することはできないという理由の一つは、もとより現実的存在は、合理的なものがそこから生じる神であったからであろう。

もっとも、『過程と実在』では、すべての現存が現実的存在とされ、現実的存在という概念は、時空的に限定された現実的生起を包摂する概念として使われているのに対して、『宗教とその形成』では、非時間的な現実的存在は、時空的に限定された現実的生起を包摂した概念ではない。だが、『宗教とその形成』と『過程と実在』では、このような違いがあるにもかかわらず、『宗教とその形成』でも既に、新しい事実が作られるに際して、事実を作る働きと作られた事実とは分離されえないとも考えられている。すなわち、現実的生起は被造物creatureとして「一つの創発的事実one emergent fact」であるが、「創造活動と被造物という二つの現実的存在があるのではない。自己創造的被造物self-creating creatureである唯一つの存在がある」(RM 101f.)と考えられているのである。ここで、自己創造的被造物は、事実を作る働きにして、それによって作られた事実そのものである。『過程と実在』の現実的存在も、こうした自己創造的被造物に他ならない[22]

現実的生起がそれぞれ「一つの創発的事実」である一方で、創造活動は、存在するものが作られていくところに通底する働きであり、その作られたものを包容しながら新しい存在を作っていく働きである。限定の働きによって新しい存在が作られるも、それが与件として別の生成過程のうちで感受され、その生成もまた限定されて新しい存在が生起するという律動的な進展は、創造活動によって可能ならしめられている。つまり「創造活動はそれの被造物から分離できない。……被造物にとっての創造活動the creativity for a creatureは被造物を伴った創造活動the creativity with the creatureとなり、それによって創造活動はそれ自身の別の相へと移行する」(RM 92)。

特に『過程と実在』以降において、被造物の総体としての世界を伴って次なる創造へと移行する側面に注目するとき、創造活動は、「神の結果的本性the consequent nature of God」と、「神の自己超越的本性the superjective nature of God」と切り離せない。ホワイトヘッドの形而上学における神は、その原初的本性に関する限り非時間的だから、時間的で歴史的な世界に直接的に関係づけられていない。だが、ホワイトヘッドは『過程と実在』では、その最終校訂の段階において、神の結果的本性と、神の自己超越的本性を認めるようになっている[23]。神の結果的本性は、原初的本性において作り出した被造物の全体を物的に抱握するのであり、この本性により歴史的な世界と神は関係づけられる(cf. PR 88)。ホワイトヘッドは、原初的本性において時空的な世界と神とを区別しつつ、結果的本性において世界と神との関係を論じるのである。さらに神の自己超越的本性は、永遠的である原初的本性と、時空的世界と関係をもつ結果的本性を媒介し統合するものであり、神は、原初的本性と結果的本性をもちながら自らを越えていくものとしても考えられる。

しかしながら、神は創造活動を性格づけるとしても、創造活動は、ホワイトヘッドの哲学体系において、神よりも高次のものとして位置づけられている。神はあらゆる永遠的客体を抱懐していると考えられたが、創造活動は、神がそれを限定して新しい存在を生起させるという意味では神よりも高次である。神の結果的本性は、そうして生じた被造物を抱握する。さらに神の自己超越的本性は、「様々な時間的な事例のうちに超越的創造活動を性質づける、神の特殊な満足のプラグマティックな価値の性格」(PR 88 傍点筆者)と定義されている通り、あくまでも創造活動を性質づけるに過ぎず、創造活動自体は、神の自己超越的本性に性質づけられる、それより高次のものなのである[24]

神はあくまでも現実的存在であり、『過程と実在』では、「神は原初的な被造物である」(PR 31)とも言われている。だが、創造活動は存在するものではなく、存在するものを作る働きである。創造活動は、それが限定されて新しい存在が実現されるという意味では無限定である。また、新しい存在における質を担う永遠的客体は現実化されたものにおいてこそ現れるという意味では、形が与えられる以前の創造活動は無形であるともいえる。何か創造活動という存在するものがあるのではない。むしろ、ある意味では非存在である創造活動が限定されて個々の存在するものは生起すると考えられる。

ただし、創造活動は、それが限定されて個々の存在するものが生起するといっても、個々の生起をそれ自身のうちに解消してしまうような一元論的な基体的実体でもなければ、単に質料的なものでもない。なるほど、生起するものすべてがそれにおいて生起し、それらすべてを包容しているという意味では一なる全体ともいえよう。ホワイトヘッドは、あらゆるものがそれぞれ個別的でありながら相互に内在するという宇宙の「連帯性solidarity」を表現するのに、「延長連続体extensive continuum」や「受容者Receptacle」という概念を用いたが、創造活動は、それが限定されて形ある個々の存在が生起するともいえるから、創造活動自体が、そうした概念を含意しているという解釈もある[25]。また、創造活動は、それの限定を通じて形をもつ新しい存在が生起することから質料に比されることさえあり、ホワイトヘッドによれば、「創造活動は、アリストテレスの『質料』がそれ自身の性格をもたないのとまさに同じ意味で、それ自身の性格をもたない」(PR 31)[26]

しかし、個々の存在は絶え間なく誕生しているのであって、創造活動は、生起する諸存在の単なる集積体などではない。むしろ、それは、限定を通して新しい存在を生起させる以上、静的な一なる全体ではありえず、多への展開を孕んだ働きでなければならないだろう。創造活動は、あらゆる存在がその働きにおいて生起している限りで一である。しかし絶えず新しい存在がその働きにおいて生起する限りでそれは多であらざるをえない。また、『過程と実在』では「諸々の普遍の普遍the universal of universals」とも呼ばれ、『過程と実在』が書かれる少し前の1926年から1927年に行われたハーヴァード講義でも「最も一般的な形相the most general form」(EWM 314)とも言い換えられていている通り[27]、創造活動は、単に質料的なものではなく、諸々の普遍を包摂しそれらを越えている普遍として理解されねばならない。

したがって、創造活動は、限定性をもつ被造的事実がそこから生じるという点では、形以前の働き、ひいては哲学の説明以前の形を作る働きである。ホワイトヘッドによれば、「新しさの産出」や「具体的共在」という究極的概念は、より高次の普遍によっても、新しい現実的生起が生み出される際に関与している構成要素によっても説明できない(PR 21f.)。新しい存在が作られていく具体的な働きそのものは、それが作り出す存在によっては説明できず、「ただ直観に訴えるしかない」(PR 22)というのである。

ここには、ホワイトヘッド哲学の限界が示されている。『過程と実在』でホワイトヘッドは哲学について次のようにいう。

 

哲学の営みは、より具体的なものからより抽象的なものの成立を説明することである。如何にして具体的で特殊な事実が諸々の普遍から作りあげられうるかと問うことは完全な誤りである。その答えは「如何なる仕方でもできない」である。真の哲学的問いは、どのように具体的事実は、その具体的事実自体から抽象されながらもその具体的事実自体の本性によって関与させられている諸存在を現示exhibitすることができるのか、である。

換言すれば哲学は抽象物を説明しているのであり、具体的なものを説明しているのではない。(PR 20)

 

哲学は具体的事実からそこに内在する形を抽象するのだが、そうして抽象された形は、具体的事実に内在するとしても、具体的事実そのものではない。哲学は事実が如何にして生成し作られるかを説明するかもしれないが、具体的事実はそれを分析して得られる諸要素の「如何に」や「何であるか」そのものではない。ホワイトヘッドによれば、哲学は具体的なものではなく、抽象されたものを説明している。

もちろん事実は、その限定性や関係性が形によって表現されうるという点では、まったく形から分離されているわけではない。事実はそれが限定性をもつときその限りで作られたものであり、「個別的事実は被造物である」(PR 20)。「自己創造的被造物」としての現実的存在も「世界がそれから作り上げられるところの究極的実在物」である。だが、「より実在的な何らかのものを見出そうと現実的存在の背後に遡ることはできない」(PR 18)ともいわれるように、なぜ現実的存在は存在するのかと問うこともそれに答えることもできない。「重要性の度合い」や「機能の違い」はあるにしても、神も、「遥か彼方の空虚な空間における最も取るに足らない一吹きの現存」も、すべて同様に現実的存在であり、存在論的原理によれば現実的存在がなければ理由もない。現実的存在が理由そのものなのである。

さらに創造活動は、新しい被造物としての現実的存在がそれの限定を通じて作られるという点では現実的存在をも越えた働きである。創造活動は、形をもって限定された現実的存在を作り出すが、哲学は、形による限定性とともに抽象されたものをもって説明するのであり、創造活動は哲学によって説明できないのである。事実の限定性はそれの形に負っておりその形なしでは把握されないものの、事実は常にその形以上のものである。「個別的な事実は被造物であり、創造活動はあらゆる形相の背後にある究極的なものである。それは諸形相によって説明できず、[創造活動が作る]被造物によって制約されている」(PR 20)。

そうであれば、創造活動は決して我々に知られえないのではないかといえば、そうではない。創造活動は、被造物である現実的存在を越えているとはいえ、それは新しい存在を作る働きとして性格づけられてはいる。創造活動は、作られた現実的存在によって説明されないのではあるが、被造物としての現実的存在を作り出すからこそ、創造活動という働きが指し示される[28]。現実的存在が生じず、創造活動が何ものによっても性格づけられないならば、創造活動について直観に訴えることすらもできないだろう。その場合、創造活動は端的な無に過ぎない。個々の現実的存在が創造活動を説明することはないが、個々の現実的生起が絶え間なく生まれることにおいてこそ、創造活動という働きが指し示されているのである。

このことを示すために、再び創発の問題を取り上げてみよう。創発は、事柄としての個々の創発を指す場合と、それら個々の創発を図式化した創発一般を指す場合があるだろう。これらは分離されるものではなく、個々の創発は創発一般にあてはまる限りの事例であり、逆に創発一般は個々の創発によって性格づけられる概念である。創発はこうした二重性をもつため、厳密に創発一般のメカニズムを説明することはできない。仮に創発一般のメカニズムを理論的に定式化できたとしても、それは、創発と思われる過去の事例をもとに図式化されたに過ぎず、現に起きる創発、あるいは将来に起きる創発は、その図式の事例として含まれない。むしろ創発とは、その都度の現在において新しい存在が生起することであり、創発一般がもつ、新しい存在を作るという性格は、既に起きた創発の事例によって根拠づけられない。だが、被造的な事実が作られることにおいてこそ、創発一般が指し示されるということもまた真実である。創発一般は、過去の事例によっては根拠づけられないが、すぐさま過去となってしまう新しい事実が現在において生起するところにこそ成立するのである。創発一般は、個々の創発的事実によっては説明されないが、逆説的にも、個々の創発的事実を特殊な事例として生み出すことにおいて自己正当化しているのである。

ホワイトヘッド自身が、以上のような創発の例を出しているわけではないが、創造活動についても同じことがいえるだろう。個々の事例である現実的存在は、それが何であるか規定できる限り普遍的な永遠的客体が内在しているのであり、創造活動は、永遠的客体が内在する個々の現実的存在を作る働きである。しかもそれは、形をもつ被造物を作る働きでありながら、被造物である現実的生起を事例とすることによってそれ自身が性格づけられる。創造活動は、個々の事例が創られる働きそのものであると同時に、事例を生み出すことによってそれ自身が性格づけられる創造活動一般なのである。

ホワイトヘッドの「ただ直観に訴えるしかない」という言葉は、その哲学の限界を示す一方で、積極的な意味にとれば、創造活動は直観によって指し示される事柄であることを示唆している。第I部の最後でも述べた通り、科学は具体的なものを抽象・分析して一般的な諸原理を探求していく。その結果として、創発一般のメカニズムを解明しようとするかもしれない。しかし、現に起きる創発は、単に普遍的な構造として記述し尽せるものではなく、今ここで起きる具体的な事態であろう。同様に創造活動も、あらゆる現実的存在をその事例とするような創造活動一般である一方で、個々の現実的存在が生起する働きとして具体的な事柄でもある。哲学は、科学と異なり、より具体的なものへ迫っていきそれを言葉によって表現しようとする。具体的なものは、抽象された言葉によっては捉えられないのではあるが、ホワイトヘッドの哲学は、その具体的なものを指し示そうとしているのである。

以上、ホワイトヘッド哲学における「究極的なもの」である創造活動について、新しい存在の生起を論点に明らかにしてきた。創造活動は、それ自身は、何々であると規定できるような存在するものではない。むしろ個々の存在を作り出す働きであり、そうした諸存在を事例として成立している。それはあらゆる形を越えているから抽象的な言葉によっては説明できないが、それによって新しい存在の生起が可能となっている「新しさの原理」なのである。

特に本節までは、創造活動が「新しさの原理」と言い換えられていることに注目し、個別的な事実自体の自己限定という働きに新しい存在の生起の可能根拠を見出してきたが、「究極的なものの範疇」では、「新しい共在の産出」や「具体的な共在」という言葉が使われ、「『新しい共在の産出』は、『合生』という言葉において体現される究極的な概念である」(PR 21)とも述べられている。これらの言葉は、ホワイトヘッドのいう創造活動が「共在」と密接に関わっていることを示唆している。次節以降では「共在」を論点に考察を進めていきたい。

 

 

[1] 現実的存在よりも結合体に重点を置く研究として、遠藤 [1992], Lango [2000], Lango [2003], Lango [2007]などがある。これらは本章の6節以降で言及することになるだろう。また、ランゴは、現実的存在の生成に注目しても考察している。すなわち、Lango [2001]では、現実的生起の創造的前進は時間的であり、現実的存在は時間的に新しい生成の活動であるという想定のもと、合生の時間について考究されている。

[2] 以下では、『過程と実在』とそれよりあとの諸著作を、『過程と実在』以降と呼ぶことにする。

[3] 『現象と実在』(1893年)や『真理と実在』(1914年)などでブラッドリーは主客未分の経験を指して「感受」という用語を用いている。特に『真理と実在』第VI章「直接経験の知について」では直接経験から主と客の対立への発展を辿り「絶対者」に至ることが論じられており、ホワイトヘッドはしばしばそれを参照しながら自身の感受がブラッドリーのそれと符合しているといっている(PR xiii, AI 230ff.)。ブラッドリーの感受およびホワイトヘッドのそれとの比較は遠藤 [1980] 1-22頁を参照。また、ジェイムズも例えば『心理学原理』(1890年)で感受という言葉を用いており、ホワイトヘッドはそれがブラッドリーとほぼ同じ用法だと述べている(AI 231)。ジェイムズからホワイトヘッドへの影響は本論文の第4章を参照されたい。その他、感受を情的知として解釈したものとして村田 [2000]がある。

[4] プリゴジン [1984]の第10章結語やプリゴジン [1987]の各所などを参照。

[5] 本章第6節以降を参照。

[6] ホワイトヘッドによれば、“concrescence”という言葉は、「共に成長することgrowing together」を意味するラテン語(“concrescere”)に由来している(AI 236)。

[7] Haeften [2007]では、特に『科学と近代世界』の「抽象」の章の分析を通じて、「数」と神の相関について論じられている。また、Haeften [2006]では、永遠的客体が完結したシステムを形成しており、その可能性についてくみ尽すことができないと論じられている。

[8] ホワイトヘッドによれば、プラトンの宇宙論に比べればニュートンの宇宙論は圧倒的に経験的事実に即していた。「『一般的注解』は、とてつもなく有能に細部を陳述しているのであり、それら細部は、哲学としては抽象的で不十全であるとはいえ、その抽象と同レベルの抽象度で真実を演繹するのに信頼するに足るものである」(PR 93)。これに対してプラトンの『ティマイオス』は科学的な細部の陳述としてみなされるなら「一般的注解」と比較して馬鹿げたものに思えるが、哲学的な思慮深さがその細部の欠陥を補っており、一つの比喩として読まれるなら深淵な真実を語っているとホワイトヘッドは評価する(PR 93)。

[9] Cornford [1997] p. 22f.

[10] 『過程と実在』執筆段階のホワイトヘッドのプラトン解釈はテイラーに負っている(PR 42)。特に『ティマイオス』に関して、『過程と実在』を書いていた段階で参照していたのは『「ティマイオス」注解』ではなく『プラトン―生涯と思想―』である(1927年を参照しているから第2版だと推測される。)。テイラーの『「ティマイオス」注解』は『過程と実在』刊行準備中に出版されたため、ホワイトヘッドはそれをわずかしか参照できなかった(PR xiv)。『過程と実在』の序文によるとテイラーの諸論文も参照していたようだが、ホワイトヘッドが直接引用している箇所以外は不明であり、どれほどテイラーの解釈を参照したのか定かではない。また、『プラトン―生涯と思想―』は『科学と近代世界』よりもあとに出版されているため、過渡期においてそれが影響を与えたとは考えられないが、過渡期においても既に、『ティマイオス』はもちろんのこと、テイラーの諸論文を読んでいたかもしれない。なお、ホワイトヘッドがテイラーから影響を受けた一方で、テイラーもホワイトヘッドの哲学から影響を受けており、両者には相互的な影響関係がある。

[11] Taylor [1927] p. 441.

[12] Taylor [1927] p. 444.

[13] 『観念の冒険』ではホワイトヘッドは、秩序について単なる賦課説も単なる内在説も問題点があると指摘しており、プラトンの後期対話編では賦課説と内在説の融合に向かっていると理解している(AI 111ff.)。「万有在神論」を説くホワイトヘッドも賦課説と内在説を融合しようとしている。

[14] ニュートン [1971] 64頁以下参照。

[15] ニュートン [1971] 561頁。

[16] ニュートン [1983] 354頁。

[17] 1953年に生命の起源を明らかにすべくスタンレー・ミラーが行った実験を想定してこの例を挙げた。ミラーの実験で想定されている環境は今日考えられている原始地球の大気の組成と異なっているなどの理由から、今日、この実験は前生物的なものの誕生の解明としては受け入れられていない仮説の一つに過ぎないが、別様でありえたにもかかわらずなぜ特定の現存が実現されたのかという問題を考察する一つの例には適っているだろう。以下の文献でも、なぜβ‐アミノ酸などではなくα‐アミノ酸が生じたのかという問題が挙げられている通り、この問題は今日の創発理論においても解決されていない。ルイージ [2009] 53頁以降参照。

[18] ルイージ [2009] 66頁以降参照。

[19] 例えば前節で参照した『ティマイオス』への言及箇所、すなわち、「『ティマイオス』にとって世界創造は一つの宇宙時代をうち立てるある類型の秩序の登場である」(PR 96)という箇所では、新しい類型の秩序の誕生が創造と理解されている。これに賛同してホワイトヘッドが新しさについて論じるときも、類型の秩序の新しさを意味していると考えられる。

[20] 先の例でいえば、何か自然を超越した領域でα‐アミノ酸の質が用意されて然るべき諸条件のもとでそれが現実化されるのではなく、現に実現されたα‐アミノ酸という現存において新しい質が現れる。アレグザンダーとは異なりホワイトヘッドは永遠的客体論を展開したものの、それは創発が現に起こることの可能的な一般的諸条件の記述であって、事柄として新しい質が現れるのはあくまでも特定の現存においてであると考えられるのである。

[21] もっと正確にいうならば、ホワイトヘッドの哲学において人間は、諸々の現実的存在からなる結合体であり、現実的存在は、まさに事実を作っているその都度の限定の働きである。各人のその都度の経験が唯一無二の現実的存在であり、個々人は、その都度の現実の経験によって構成されていく。第I部でも述べた通り、ホワイトヘッドの哲学は経験論的であるが、それは、ジェイムズの根本的経験論、すなわち「その理論的構成において、直接に経験されない如何なる要素も認めてはならず、また、直接に経験される如何なる要素も排除してはならない」(James [1976] p. 22, ジェイムズ [2004] 49頁)という態度の経験論である。一々の経験がホワイトヘッドのいう現実であり、普遍によってはくみ尽せない存在の新しさなのである。

[22] 1926-1927年のハーヴァード講義に関するノートでも次のように書かれている。「デカルトの批判:(1)ホワイトヘッドは、実体を現実的存在と同一視する点でデカルトに同意する。……(4)デカルトにおいて、神は、唯一の自己創造的な実体であり、創造の過程the process of creationは、創造者the creatorでもある。ホワイトヘッドにおいて、これは、すべての現実的存在の一般的性格である」(EWM 312)。

[23] 『過程と実在』で「神の結果的本性」という言葉が出てくるのは18箇所のみである(田中 [1995] 87頁以下)。「自己超越的本性」に至っては、PR 88の1箇所のみである。

[24] 明らかにホワイトヘッド自身は、創造活動を神よりも根源的なものとして論じているが、ホワイトヘッド研究の中には、神を創造活動の起源として解釈しようとする試みもある。例えば、Franklin [2000]を参照。また、ホワイトヘッドは無からの創造を否定するが、エドワードは、プロセス神学の立場から無からの創造を肯定する解釈を試みている(Edwards [2000])。Clayton [ 2008]でも、万有在神論と無からの創造について論じられている。

[25] ノボーは、「延長連続体」や「受容者」を「究極的なものの範疇」に含め、ホワイトヘッド哲学の発展的解釈を提示している。Nobo [1986].

[26] クローツは、ホワイトヘッドの創造活動を、スピノザの第一実体やアリストテレスの第一質料に比して、それらを比較・分析している(Cloots [2000])。また、フランクリンも、創造活動と、アリストテレスとの質料との類似性を分析している(Franklin [2000])。

[27] バークによってまとめられた1926-1927年のハーヴァード講義に関する文献には次のように記されている。「あらゆる存在は、創造活動が客体化される何らかの仕方を表現する。創造活動は最も一般的な形相である。それは、それぞれの個体的な現実的存在のうちにその特定の性格を獲得する」(EWM 314)。

[28] 1926-1927年のハーヴァード講義では、「存在論的原理」として、「創造活動の性格は、それ自身の被造物に由来しており、それ自身の被造物によって表現される」(EWM 313)と論じられていた。

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