『多元的宇宙』

『多元的宇宙』
A Pluralistic Universe. Hibbert Lectures on the Current Situation in Philosophy Delivered at Manchester College, Oxford in 1909. 1909
邦訳: ウィリアム・ジェイムズ著作集6 『多元的宇宙』、吉田夏彦訳、日本教文社、1961年。(付録AとBは除く)
ウィリアム・ジェイムズ 『根本的経験論』、舛田啓三郎/加藤茂訳、白水社、1978年。(第3章と第6章に付録AとBの訳出)
ウィリアム・ジェイムズ 『純粋経験の哲学』、伊藤邦武訳、岩波文庫、2004年。(付録B「活動性の経験」、C「変化しつつある実在という考えについて」、「結論(多元的宇宙)」の訳出)

『多元的宇宙―1909年、オックスフォード、マンチェスター・カレッジに於て講ぜられた、哲学の現代的状況に関するヒバート講義』
目次
第1講 いろいろなタイプの哲学的な考え方 1909年
第2講 一元論的観念論 1909年
第3講 ヘーゲルとその方法 1909年
第4講 フェヒナーについて 1909年
第5講 意識の複合 1909年
第6講 主知主義に対するベルグソンの批判 1909年
第7講 経験の連続性 1909年
第8講 結論 1909年
付録A 事物とその諸関係 1905年1月
付録B 活動の経験 1905年
付録C 変化するものとしての現実の概念について

“Ralph Barton Perryが編集。付録A、B、Cのうち、AとBは、Essays in Radical Empiricismの第3章と第6章に収録されている。
A: “”The Thing and its Relations””(The Journal of Philosophy, Psychology and Scientific Methods, vol, II, No. 2, January 19, 1905.に載ったもの。)
B: “”The Experience of Activity””(Psychological Review, vol. xii 1905に載ったもの。)”
「彼自身はその宗教心理学やプラグマティズムの認識論を基礎づけるために形而上学の体系的構築が必要であることを痛感して、1904年から1905年にかけて集中的にこのテーマを追求し、その成果を一連の雑誌論文として発表していった。そして1908年から1909年にオックスフォード大学で「哲学の現在の状況について」という表題の下で連続講演を行い、その講演原稿を『多元的宇宙』として出版する際に、これらの形而上学的論文の一部をその補遺として巻末に加えることにした。このことは、『多元的宇宙』の思想が1904年から1905年の諸論文の延長上にあり、それをさらに発展させたものであることを意味している。」(伊藤邦武『純粋経験の哲学』「解説」262頁以下。

多元的宇宙―1909年、オックスフォード、マンチェスター・カレッジに於て講ぜられた、哲学の現代的状況に関するヒバート講義
目次
第1講 いろいろなタイプの哲学的な考え方
第2講 一元論的観念論
第3講 ヘーゲルとその方法
第4講 フェヒナーについて
第5講 意識の複合
第6講 主知主義に対するベルグソンの批判
第7講 経験の連続性
第8講 結論
付録A 事物とその諸関係(根本的経験論第3章)
付録B 活動の経験(根本的経験論第6章 伊藤邦武訳出「活動性の経験」)
付録C 変化するものとしての現実の概念について(ジェイムズ著作集訳出 伊藤邦武訳出「変化しつつある実在という考えについて」)

ジェイムズは、『多元的宇宙』の第1講「いろいろなタイプの哲学的な考え方」で、経験主義と理性主義の大事な違いを指摘して、「経験主義とは、部分によって全体を説明する習慣であり、理性主義とは、全体によって部分を説明する習慣である。理性主義は、かくて、一元論と親近性を保つというのは、全体は統一とともにあるからである。一方、経験主義は、多元論的な見解に傾く。どんな哲学も、世界を要約的にスケッチしたもの、つまり、世界の略図、ないし、事件のパースペクティブを遠見に書いた見取り図以上のものではありえない。そうして、何よりもまずそれに注目しなくてはならないのは、世界全体の絵をかく際、我々が自由につかえる材料は、この世界のさまざまな部分中、我々がすでに経験したものから供給されたものだけだ、というこのことである」(PU 訳7)という。「経験主義的な人間は、部分を全体の前におく」。理性主義者は、「世界を、秩序のある宇宙としておきたい」。「経験主義的な人間は、部分を全体の前に置く。そこで、全体から出発し、したがって壮大なことばづかいをして喜んでいる理性主義者の眼には、わざわざものごとをちっぽけにすることばをつかっているように見えるかもしれない」。ジェイムズ自身は、「経験主義のちっぽけな言い方を使うであろう」という(PU 訳11)。
どんな哲学にも2つの部分がある。「その一つは、その哲学が我々をそこにみちびいてくれる最終的な見解、信念、あるいは態度であり、もう一つは、その態度に至るみちすじにある推論である」。「哲学は真でなければならないが、しかしそれは、哲学に課せられた最小の要求にすぎない。哲学者ではなくても、あて推量か啓示かによって、真なことをいうかもしれない。哲学者の真理を他の真理からわかつものは、それが推量によって得られるという事実である。想像ではなく、論証によって哲学者は真理を獲得しなければならない。」一般人は、その信仰をその父祖から受け継いでいることを知っているが、それがいかにしてかを知らないが、哲学者、理性から、その信念に対する認可をえなくてはならず、職業的な哲学者にとっては、その認可を得る手続きの方が、その認可によって接近可能になった信念よりも、重要なのが通例である。哲学者は、前提や意味や反論、難点を考察する。
しかし、ジェイムズは、職業的な哲学者の方法に批判的である。職業的な哲学者は、過去の哲学者に言及しなければならない。「こうして、思考の自発性や、概念の新鮮さは、すべて失われてしまう。」ジェイムズは、当時のアメリカの若い学生たちが、「あまりにも技術的すぎて、うんざりするような状態にある」と嘆く。それは、「ドイツ風のやり方をあまり忠実にまねしすぎたために生じたことである」と述べ、ジェイムズ自身は、「もっと人間的なイギリスの伝統にしたがれるように、という強い希望をここで表現させて頂きたい」という。「アメリカの学生たちは、後になって、いたましいほどの個人的な努力をはらって、主題との直接的な関係を回復しなければならない。我々の中には、その回復に成功したものもある。しかし、もっと若い人たちは、決して回復しないのではないかと、私はおそれている。職業的な習慣が、すでにそれほど強くなっている」という。だが、「哲学のような学科では、人間性のひらかれた空気とのむすびつきを失い、職業上の伝統だけによって考えるということは、実に致命的なことなのである」という(訳14)。ドイツでは、形式があまりに職業化されたために、教職をえて書物を書いたものはだれでも、その学問の歴史に、権利を獲得し、「彼のあとからきたものはみな、彼の著作を引用し、自分の意見を彼の意見と比較する義務をおう。これが、職業的なゲームのルールである」。これに対して、ジェイムズは、「一つの哲学は一人の人間のもっとも内的な性質の表現である。宇宙の定義はすべて人間性が宇宙にたいして意識的におこなう表現にほかならない」と訴える。
「哲学の歴史全体をとりあげてみると、もろもろの体系は、いくつかの、主要なタイプに還元される。これらのタイプは、人間の天才的な知性によって技術的なことばの中につつまれているが、結局、それぞれ、ヴィジョン、即ち各人の全性格と全経験によって各人におしつけられた、人生の全衝動の感じ方、人生の流れ全体の見方である。そうしてそれは、各人にとって、もっともよい作業態度として優先的に選択―ほかに適当なことばがない―されたものである。シニカルな性格のものは、ある一般的な態度をとり、思いやりのある性格のものは、また別の一般的な態度をとる」(訳17)。
もっとも、知性が一般化する能力をもつまでは、世界全体に対してはいかなる一般的な態度をとることもできないのであって、原始的な人間の思想は哲学を色合いをほとんど帯びず、野蛮人にとっては、自然はほとんど統一をもちえない。それは、「光と影とがいりまじり、よい精霊と悪い精霊とがいりみだれている」。「自然に近く」生きているとはいうものの、ワーズワース主義者ではない。嵐や大火災、疫病や地震は超現世的な力を示し(訳18)、哲学よりはむしろ宗教的な恐怖をひきおこす。自然は、神的なものであるよりは、魔的なものであって、何よりもまず多種多様的である」。たすけになったりおそってきたりする生物がたくさんいる、憎んだり愛したりするべき対象がたくさんいる。仲良くしていくことが問題なのである。
しかし、時がたつにつれ、知性は一般化し単純化し、従属させる情熱にめざめてくる。そうして、概念の分裂が始まる。その分裂は、その後の経験によって消されるよりは、むしろ深められたようにみえる。なぜなら、客観的な自然がどちらの側にも公平に助力を与えるが、思想家たちは、その様々な部分を強調させ、相対立する想像上の補足物をつみあげさせてきたからである。」もっとも興味深い対立は、「思いやりのある気質」と「シニカルな気質」の争いから生じる対立である。唯物論的な哲学と唯心論的な哲学とが、その結果生ずるライバルである。
特に、唯心論は、内在論的で一元論的なものと、内在の度が少ない二元論的なものに分かれる。後者は、スコラ哲学において入念に仕上げられた一神論である。一元論的な種類の方は汎神論で、時に観念論、時には、「絶対」観念論と呼ばれるものである。それぞれの神の説明。現代人は、より内在的な世界観の可能性をつかんだのであり、注目に値する意見は、大雑把には汎神論的なヴィジョンの領域とでもいうべきものの範囲に入る。このヴィジョンは、神を外的な創造者としてよりは、内在的な神としてとらえ、人生をこの深い実在の部分と考えるものである。(訳25)唯物論や二元論的な一神論の説明は省略される。
内在的な種類のものは、さらに、一元論と多元論に分かれる。唯物論的哲学は、事物の中にあるよそよそしさこそが、第一義的で永続的なものとする。実用的な観点からすれば、よそよそしいものを背景として生きることと、親しいものを背景にして生きることの違いは、たえず用心している習慣と、信頼している習慣との違いを意味する。ただし、この区別は大雑把なもので、もっと別の観点の区別をもうけることもできるだろう。だが、そのうちの一つですべてをとらえることはできず、「哲学がせいぜいのぞみうることは、どんな関心も永久には締め出さないようにしたいということである」(訳26)。
ジェイムズは、絶対者の哲学と多元論の哲学を対照させ、両者は、人間的な実体を神的な実体と同一視する点で一致するという。しかし、絶対主義は、問題の実体は全体性のかたちにおいてのみ、神的なものとなるのであり、全体形においてのみ真の自己であると考えるのに対して、ジェイムズがとろうとする多元論は、全体形が存在しないかもしれず、実在の実体は、完全に集めることができないかもしれないと考え、どんなにつなぎあわせても、そこに入らない部分が残るかもしれず、各個形も全体形と同じく、論理的に可能で経験的にありうるかもしれないとする。どちらも唯心論的だが、一元論的な方が絶対者の哲学と呼ぶなら、多元論の方は根本的経験論と呼んでもよい。
両者の違いを語る手掛かりとして、ジャクス教授の論文に触れる。宇宙と、記述し定義する哲学者の関係について二つの場合がある。一つは、哲学者が語るものは、彼が説明している宇宙にとって外的なものであり、第二の場合は、哲学をしている事実自体がその哲学において考慮され、その記述の中に取り込まれている。後者の場合は、哲学者の哲学自信が、宇宙の内在的な部分の一つとなる。
経験主義と絶対主義は、哲学者を宇宙の内部にひきいれ、人間を宇宙にとって親しいものとする。しかし、一元論にとっては、世界は、寄せ集めではなく、ただ一つの大きなすべてを包含する事実であり、その外には無しかない。全体か無かしかありえない。「この一元論が観念論的である場合には、このすべてをつつみこむ事実は、絶対精神としてあらわされる」(訳29)。この絶対精神が部分的な事実をつくりだす。この図式では、存在することは、有限者の側にあって、絶対者の対象となることであり、絶対者の側にあっては、この対象の集まりを、考え出すものとなる。絶対者と世界は、同一の「内容」をもっている。絶対者はこれらの対象の知識にほかならず、対象は絶対者が知るところのものにほかならない。世界とすべてを考える絶対者はお互いひたしあい、同じ質料の二つの名前に過ぎない。一元的な図式では、哲学者も質料の一部分をなしている。「絶対者は我々を考えることによって、我々をつくりだす」(訳30)。我々の知能が進んで、絶対者を信ずるようになったとすれば、我々の哲学は、絶対者が自分自身を意識するやり方の一つであるといってもよい。これは、汎神論的な図式であり同一哲学である。神のその創造における内在であり、統一性からの受胎である。だが、この統一性は不完全だ。絶対者、世界、知識。
我々の哲学は、絶対者の自分自身の知識の一部分であり、知られる他のすべてのものとひっくるめられて、絶対者そのものである。この質料的な意味では、我々は絶対者と一体となっている。絶対者は、我々の全体であるにすぎず、我々は絶対者の部分であるに過ぎない。ただし、私は絶対者に比べ無知であり、私自身は、他の大部分のものとは切り離されて、私の知識の中にあらわれる。そうして絶対者の完全な知識と、私の無知から実際的な違いが生じる。無知は、私に、誤りや好奇心、不運、苦しみをもたらし、私はこういう結果に悩む。絶対者はこうしたことを知っているが、それ自身は悩まない。それは無知ではありえない。どんな問題を知ろうとも、その答えを知っているからである。それは、罪を犯すこともない。それは、継続性をもたない。継続は、その部分ではなく、その中にある。それは「無時間的」だからである。
こうして、汎神論においても、神と人間の間の親しさをさまたげる壁が、君主主義的な一神論と同じくくらい立ちはだかる。人間は、時間的な観点の中にいやしくも根をはやしている。永遠者の道は、我々の道とは似ても似つかない。「全体者に学ぼうではないか」というが、「我々はしょせん部分である、絶対者をよそものであるかのようにみなさなくてはならない」

絶対者は、完全で、歴史をもたない(訳37)。「それ自体においては、絶対者は働きもせず、悩みもせず、愛しもせず憎みもしない。それは、要求も欲望ももたず、失敗も成功もせず、友達も敵もなく、勝つことも負けることもない 。こういったことはすべて相対者としての世界に属する。我々有限者の経験は、この相対者としての世界の中にある」。共感のカテゴリーは、有限な世界、歴史をもっている事物に結びつけられる。私は、有限の世界に属さないものに対しては、目も耳も心ももたない。我々は、宇宙の物語をただ読んでいるに過ぎないのではなく、読者ではなく、世界ドラマをまさに演じているものなのである。「諸君の目からは諸君の一人一人がその主人公であり、諸君の友達や敵が、かたき役なのである。」
絶対主義者が、もっとも強調するのは、絶対者の「無時間的な」性格である。一方、多元論者にとっては、時間は他のすべてのものと同じく、実在的である。我々がもっともくつろぎを感じる世界は、我々の歴史にからんでくる歴史をもっている存在者の世界である。そういう存在者を我々は助けることができ、それらが我々を助けてくれる。絶対者は、この満足を我々に与えない。絶対者を助けることもできなければ、その邪魔もできない。それは、歴史の外に立っているからである。あらゆる目的、理由、動機、欲望や嫌悪の対象、我々が感じる悲しみやよろこびのよってくるところ、これらは、有限な多様性の世界の中にある。ものごとが実際に生じ、事件が起こるのはこの世界においてのみだからである。こうした有限者の歴史の大部分は、静的な絶対者と同様、よそよそしく思えるかもしれない(訳 39)。実際、この悪い性格から絶対者は由来している。これは、最終章で扱う。
マクタガートは、「実在はその本性においては過程ではなく、安定した無時間的な状態である」という。ヘーゲルは、「神の本当の知識は、事物は、その直接的な状態では真理を全然もっていない、ということを我々が知るとき、はじまる」という。
絶対主義の論点を、ジェイムズは、絶対者が仮説ではなく、あらゆる思考の前提であって、分析してみればその論理的な必然性が明らかになる点に見出す。多元論や経験論をやっつけるとき、絶対主義が好んで使う方法は、一種の帰謬法である。多元論は、事物がある意味で連結されているが、ある意味で相互に独立で、すべてをつつみこむ単一の事実のメンバーではないというが、独立を認めれば、たくさんの独立を認めざるを得なくなり、ついにはまったくのカオスしか残らないことになり、部分間にはいかなる連結もありえないと批判する。一方、二つの間に少しでも関係を認めれば、すべての事物の絶対的な統一を認めるまで止められなくなる 。(訳44)
経験論者が、部分から全体に向かうとき、「存在者はまず第一に存在し、いわばそれ自身の存在だけによってたよって生きており、そうして第二次的にお互いに知られあうのかもしれない」とするが、しかし絶対主義の哲学者は、「存在するということが、知られるということから独立していることが 、認められるならば、宇宙は、救いようのないほどに解体されてしまうだろう」という(ロイスの証明の一つ)。例:猫と王さまの関係、猫と王の間→絶対者(訳49)。一元論は、「いたるところ」互いに含みあっている世界を肯定する。「環境をまったくもたず、すべての関係をその中につつみこんだ、統合的な絶対者」。第一者としての全体は、単に事実としてのみならず、論理的な必然性として存在しなければならない。(訳54)絶対的な全体があるか、絶対的に何もないかいずれかである。部分的に理性的で、部分的には非理性的であるという言い方は世界の記述として許せない。少しでも合理性があれば、世界はいたるところで理性的でなければならない。少しでも非合理性があるなら、その非合理性が世界全体をおおわなくてはいけない。世界は完全に理性的であるか、完全に非理性的であるかのいずれかでなくてはならない。(絶対主義は、すべての科学、真なる知識、経験が整合的な宇宙を前提しているとし、理性主義的な信仰のもと、感覚所与とその結合はつじつまのあわないものであり、それらの秩序のかわりに、概念の秩序を導きいれることによってのみ真理は発見できるとする。訳58)。
ジェイムズは、こうした議論のどこかに間違いがしのびこんでいるのではないかという疑問を抱かざるを得ないとするが、「むしろ、主知主義的な批判そのものをあらためるやり方の方に、解決があるのではなかろうか」という(訳59)。「感覚経験の流れそれ自身の中に合理性があるのがみすごされてきたのではなかろうか」という。「感覚経験のいうところにもっと素直に耳をかたむけること」、「私自身は、これこそが世界における合理性を保存する真の方法だと考えている」という。
ブラドリーは、複数の実在は不可能だとする。多なる個物は、関係づけられるのであり、統一をもちより大きな体系である全体へともたらさなくてはならない(AR, 1893, pp. 141-142.)。絶対的な独立か絶対的な相互依存かが唯一の選択になるが、個々の事件はみな、究極的には、すべての事件に関係しており、それが属する全体によって決定されている(リッチー)のであり、完全に一かたまりになっている宇宙か、まったくありえないかである。
ジェイムズ自身は、中間の道が好ましいと考える。(訳65)神と絶対者は違う(訳87)。神のライバルが絶対者であり、論理によっておしつけられないばかりか、ありそうもない仮説だとジェイムズはいう(訳88)。
「絶対者の概念が、宇宙の合理性についての我々の感情にもたらした最大の貢献は、宇宙の表面はどれ程みたされていようとも、その底ではすべてがうまくいっている―無限につづく混乱の中心に平和がやすらっているという確信であろう」(訳89)。この考え方は、理性的で、審美的にも美しいし、主知的にも美しいし、道徳的にも美しいが、実用的にはそれほど美しくはない。「世界のもっとも深い実在を、静的で歴史のないものとすることにより、世界が我々の共感をとらえる度合いを少なくし、世界の魂を我々にとってよそよそしいものとするからである。にもかかわらず、この考え方は、平和を与える。」(訳89)。「この種類の合理性は、非常に強く要求されているものなので、変化と努力にみちている有限な世界が永遠であるとみとめるよりは、静かで動かない永遠の方をえらぶような絶対主義者はいつになってもたえないであろうと思われる。ロイスはいう:「時間の中での我々の努力を通じて、時間の中にはありえない平和、永遠の中においてのみ、かつそこでは絶対的に、えられる平和を求めるのである。時間の中においてもとめることがなければ、永遠の中における平和もないであろう。」(The World and the Individual, vol. ii, pp. 385, 386, 409.)(訳90)絶対主義の批判。全体は部分を含み、我々も部分だが、部分は不完全で、絶対者は不完全。
ジェイムズの結論は、「絶対者の仮説は、ある種の宗教的な平和をもたらす点において、もっとも重要な合理化機能をいとなむけれども、知的な観点から決定的に非合理なものである。理想的に完全な全体とは、たしかに、その部分もまた完全な全体であるはずである……絶対者は理想的に完全な全体として定義されている。しかもその部分の、すべてとはいわないまでも、大部分が不完全なものとみとめられているのである。明らかにこの概念は、内的な整合性を欠いており、問題を解決してくれるよりはむしろ、問題を提出しているものである。」(訳97)
多元論的な形而上学では、悪が提出する問題は、実用的なものであって、思弁的なものではない。考慮すべき問題は、なぜ悪が存在するかではなく、いかにすれば現実の悪の量をへらすことができるのかである。普通人の宗教生活においては、「神」は、断じて事物全体の名前ではない。それは事物における理想的な傾向の名前にすぎず、彼の目的を実現するのに手をかしてくれと我々によびかけている超人的な人間として信じられているものである。この超人は、もしそれが価値あるものならば、我々の目的をもおしすすめてくれるのである。その神は有限であるが。(訳98)
要するに、絶対者は論理によって我々の信仰におしつけられたものではなく、それ固有の非合理な特徴をもっている。……仮説としては、絶対者は、そのあらゆる欠点にもかかわらず、その平和をもたらす力と形式的な壮大さのために、他のいかなるものよりも合理的であるかもしれない。しかし一方、時間の中を直線状にのびている、未完結の世界が絶対者のライバルなのである。実在は配分的なかたちで存在するかもしれない、それは、全体のかたちでではなく、見える通りの、各個の集合のかたちで存在するのかもしれない―これが反絶対主義的なかたちである。
「哲学においては、論理よりも情熱的なヴィジョンの方が重要なのだとすれば―私はそうだと信じている、論理はヴィジョンのあとからその根拠づけを見つけるだけである」(訳134)。哲学では、論理はそれほど大きな役割を演じず、ヴィジョンの優劣が、哲学の優劣の判定条件になることを積極的に示そうとした(訳263)。

ジェイムズは、『多元的宇宙』の第1講「いろいろなタイプの哲学的な考え方」で、経験主義と理性主義の大事な違いを指摘して、「経験主義とは、部分によって全体を説明する習慣であり、理性主義とは、全体によって部分を説明する習慣である。理性主義は、かくて、一元論と親近性を保つというのは、全体は統一とともにあるからである。一方、経験主義は、多元論的な見解に傾く。どんな哲学も、世界を要約的にスケッチしたもの、つまり、世界の略図、ないし、事件のパースペクティブを遠見に書いた見取り図以上のものではありえない。そうして、何よりもまずそれに注目しなくてはならないのは、世界全体の絵をかく際、我々が自由につかえる材料は、この世界のさまざまな部分中、我々がすでに経験したものから供給されたものだけだ、というこのことである」(PU 訳7)という。「経験主義的な人間は、部分を全体の前におく」。理性主義者は、「世界を、秩序のある宇宙としておきたい」。「経験主義的な人間は、部分を全体の前に置く。そこで、全体から出発し、したがって壮大なことばづかいをして喜んでいる理性主義者の眼には、わざわざものごとをちっぽけにすることばをつかっているように見えるかもしれない」。ジェイムズ自身は、「経験主義のちっぽけな言い方を使うであろう」という(PU 訳11)。
どんな哲学にも2つの部分がある。「その一つは、その哲学が我々をそこにみちびいてくれる最終的な見解、信念、あるいは態度であり、もう一つは、その態度に至るみちすじにある推論である」。「哲学は真でなければならないが、しかしそれは、哲学に課せられた最小の要求にすぎない。哲学者ではなくても、あて推量か啓示かによって、真なことをいうかもしれない。哲学者の真理を他の真理からわかつものは、それが推量によって得られるという事実である。想像ではなく、論証によって哲学者は真理を獲得しなければならない。」一般人は、その信仰をその父祖から受け継いでいることを知っているが、それがいかにしてかを知らないが、哲学者、理性から、その信念に対する認可をえなくてはならず、職業的な哲学者にとっては、その認可を得る手続きの方が、その認可によって接近可能になった信念よりも、重要なのが通例である。哲学者は、前提や意味や反論、難点を考察する。
しかし、ジェイムズは、職業的な哲学者の方法に批判的である。職業的な哲学者は、過去の哲学者に言及しなければならない。「こうして、思考の自発性や、概念の新鮮さは、すべて失われてしまう。」ジェイムズは、当時のアメリカの若い学生たちが、「あまりにも技術的すぎて、うんざりするような状態にある」と嘆く。それは、「ドイツ風のやり方をあまり忠実にまねしすぎたために生じたことである」と述べ、ジェイムズ自身は、「もっと人間的なイギリスの伝統にしたがれるように、という強い希望をここで表現させて頂きたい」という。「アメリカの学生たちは、後になって、いたましいほどの個人的な努力をはらって、主題との直接的な関係を回復しなければならない。我々の中には、その回復に成功したものもある。しかし、もっと若い人たちは、決して回復しないのではないかと、私はおそれている。職業的な習慣が、すでにそれほど強くなっている」という。だが、「哲学のような学科では、人間性のひらかれた空気とのむすびつきを失い、職業上の伝統だけによって考えるということは、実に致命的なことなのである」という(訳14)。ドイツでは、形式があまりに職業化されたために、教職をえて書物を書いたものはだれでも、その学問の歴史に、権利を獲得し、「彼のあとからきたものはみな、彼の著作を引用し、自分の意見を彼の意見と比較する義務をおう。これが、職業的なゲームのルールである」。これに対して、ジェイムズは、「一つの哲学は一人の人間のもっとも内的な性質の表現である。宇宙の定義はすべて人間性が宇宙にたいして意識的におこなう表現にほかならない」と訴える。
「哲学の歴史全体をとりあげてみると、もろもろの体系は、いくつかの、主要なタイプに還元される。これらのタイプは、人間の天才的な知性によって技術的なことばの中につつまれているが、結局、それぞれ、ヴィジョン、即ち各人の全性格と全経験によって各人におしつけられた、人生の全衝動の感じ方、人生の流れ全体の見方である。そうしてそれは、各人にとって、もっともよい作業態度として優先的に選択―ほかに適当なことばがない―されたものである。シニカルな性格のものは、ある一般的な態度をとり、思いやりのある性格のものは、また別の一般的な態度をとる」(訳17)。
もっとも、知性が一般化する能力をもつまでは、世界全体に対してはいかなる一般的な態度をとることもできないのであって、原始的な人間の思想は哲学を色合いをほとんど帯びず、野蛮人にとっては、自然はほとんど統一をもちえない。それは、「光と影とがいりまじり、よい精霊と悪い精霊とがいりみだれている」。「自然に近く」生きているとはいうものの、ワーズワース主義者ではない。嵐や大火災、疫病や地震は超現世的な力を示し(訳18)、哲学よりはむしろ宗教的な恐怖をひきおこす。自然は、神的なものであるよりは、魔的なものであって、何よりもまず多種多様的である」。たすけになったりおそってきたりする生物がたくさんいる、憎んだり愛したりするべき対象がたくさんいる。仲良くしていくことが問題なのである。
しかし、時がたつにつれ、知性は一般化し単純化し、従属させる情熱にめざめてくる。そうして、概念の分裂が始まる。その分裂は、その後の経験によって消されるよりは、むしろ深められたようにみえる。なぜなら、客観的な自然がどちらの側にも公平に助力を与えるが、思想家たちは、その様々な部分を強調させ、相対立する想像上の補足物をつみあげさせてきたからである。」もっとも興味深い対立は、「思いやりのある気質」と「シニカルな気質」の争いから生じる対立である。唯物論的な哲学と唯心論的な哲学とが、その結果生ずるライバルである。
特に、唯心論は、内在論的で一元論的なものと、内在の度が少ない二元論的なものに分かれる。後者は、スコラ哲学において入念に仕上げられた一神論である。一元論的な種類の方は汎神論で、時に観念論、時には、「絶対」観念論と呼ばれるものである。それぞれの神の説明。現代人は、より内在的な世界観の可能性をつかんだのであり、注目に値する意見は、大雑把には汎神論的なヴィジョンの領域とでもいうべきものの範囲に入る。このヴィジョンは、神を外的な創造者としてよりは、内在的な神としてとらえ、人生をこの深い実在の部分と考えるものである。(訳25)唯物論や二元論的な一神論の説明は省略される。
内在的な種類のものは、さらに、一元論と多元論に分かれる。唯物論的哲学は、事物の中にあるよそよそしさこそが、第一義的で永続的なものとする。実用的な観点からすれば、よそよそしいものを背景として生きることと、親しいものを背景にして生きることの違いは、たえず用心している習慣と、信頼している習慣との違いを意味する。ただし、この区別は大雑把なもので、もっと別の観点の区別をもうけることもできるだろう。だが、そのうちの一つですべてをとらえることはできず、「哲学がせいぜいのぞみうることは、どんな関心も永久には締め出さないようにしたいということである」(訳26)。
ジェイムズは、絶対者の哲学と多元論の哲学を対照させ、両者は、人間的な実体を神的な実体と同一視する点で一致するという。しかし、絶対主義は、問題の実体は全体性のかたちにおいてのみ、神的なものとなるのであり、全体形においてのみ真の自己であると考えるのに対して、ジェイムズがとろうとする多元論は、全体形が存在しないかもしれず、実在の実体は、完全に集めることができないかもしれないと考え、どんなにつなぎあわせても、そこに入らない部分が残るかもしれず、各個形も全体形と同じく、論理的に可能で経験的にありうるかもしれないとする。どちらも唯心論的だが、一元論的な方が絶対者の哲学と呼ぶなら、多元論の方は根本的経験論と呼んでもよい。
両者の違いを語る手掛かりとして、ジャクス教授の論文に触れる。宇宙と、記述し定義する哲学者の関係について二つの場合がある。一つは、哲学者が語るものは、彼が説明している宇宙にとって外的なものであり、第二の場合は、哲学をしている事実自体がその哲学において考慮され、その記述の中に取り込まれている。後者の場合は、哲学者の哲学自信が、宇宙の内在的な部分の一つとなる。
経験主義と絶対主義は、哲学者を宇宙の内部にひきいれ、人間を宇宙にとって親しいものとする。しかし、一元論にとっては、世界は、寄せ集めではなく、ただ一つの大きなすべてを包含する事実であり、その外には無しかない。全体か無かしかありえない。「この一元論が観念論的である場合には、このすべてをつつみこむ事実は、絶対精神としてあらわされる」(訳29)。この絶対精神が部分的な事実をつくりだす。この図式では、存在することは、有限者の側にあって、絶対者の対象となることであり、絶対者の側にあっては、この対象の集まりを、考え出すものとなる。絶対者と世界は、同一の「内容」をもっている。絶対者はこれらの対象の知識にほかならず、対象は絶対者が知るところのものにほかならない。世界とすべてを考える絶対者はお互いひたしあい、同じ質料の二つの名前に過ぎない。一元的な図式では、哲学者も質料の一部分をなしている。「絶対者は我々を考えることによって、我々をつくりだす」(訳30)。我々の知能が進んで、絶対者を信ずるようになったとすれば、我々の哲学は、絶対者が自分自身を意識するやり方の一つであるといってもよい。これは、汎神論的な図式であり同一哲学である。神のその創造における内在であり、統一性からの受胎である。だが、この統一性は不完全だ。絶対者、世界、知識。
我々の哲学は、絶対者の自分自身の知識の一部分であり、知られる他のすべてのものとひっくるめられて、絶対者そのものである。この質料的な意味では、我々は絶対者と一体となっている。絶対者は、我々の全体であるにすぎず、我々は絶対者の部分であるに過ぎない。ただし、私は絶対者に比べ無知であり、私自身は、他の大部分のものとは切り離されて、私の知識の中にあらわれる。そうして絶対者の完全な知識と、私の無知から実際的な違いが生じる。無知は、私に、誤りや好奇心、不運、苦しみをもたらし、私はこういう結果に悩む。絶対者はこうしたことを知っているが、それ自身は悩まない。それは無知ではありえない。どんな問題を知ろうとも、その答えを知っているからである。それは、罪を犯すこともない。それは、継続性をもたない。継続は、その部分ではなく、その中にある。それは「無時間的」だからである。
こうして、汎神論においても、神と人間の間の親しさをさまたげる壁が、君主主義的な一神論と同じくくらい立ちはだかる。人間は、時間的な観点の中にいやしくも根をはやしている。永遠者の道は、我々の道とは似ても似つかない。「全体者に学ぼうではないか」というが、「我々はしょせん部分である、絶対者をよそものであるかのようにみなさなくてはならない」

絶対者は、完全で、歴史をもたない(訳37)。「それ自体においては、絶対者は働きもせず、悩みもせず、愛しもせず憎みもしない。それは、要求も欲望ももたず、失敗も成功もせず、友達も敵もなく、勝つことも負けることもない 。こういったことはすべて相対者としての世界に属する。我々有限者の経験は、この相対者としての世界の中にある」。共感のカテゴリーは、有限な世界、歴史をもっている事物に結びつけられる。私は、有限の世界に属さないものに対しては、目も耳も心ももたない。我々は、宇宙の物語をただ読んでいるに過ぎないのではなく、読者ではなく、世界ドラマをまさに演じているものなのである。「諸君の目からは諸君の一人一人がその主人公であり、諸君の友達や敵が、かたき役なのである。」
絶対主義者が、もっとも強調するのは、絶対者の「無時間的な」性格である。一方、多元論者にとっては、時間は他のすべてのものと同じく、実在的である。我々がもっともくつろぎを感じる世界は、我々の歴史にからんでくる歴史をもっている存在者の世界である。そういう存在者を我々は助けることができ、それらが我々を助けてくれる。絶対者は、この満足を我々に与えない。絶対者を助けることもできなければ、その邪魔もできない。それは、歴史の外に立っているからである。あらゆる目的、理由、動機、欲望や嫌悪の対象、我々が感じる悲しみやよろこびのよってくるところ、これらは、有限な多様性の世界の中にある。ものごとが実際に生じ、事件が起こるのはこの世界においてのみだからである。こうした有限者の歴史の大部分は、静的な絶対者と同様、よそよそしく思えるかもしれない(訳 39)。実際、この悪い性格から絶対者は由来している。これは、最終章で扱う。
マクタガートは、「実在はその本性においては過程ではなく、安定した無時間的な状態である」という。ヘーゲルは、「神の本当の知識は、事物は、その直接的な状態では真理を全然もっていない、ということを我々が知るとき、はじまる」という。
絶対主義の論点を、ジェイムズは、絶対者が仮説ではなく、あらゆる思考の前提であって、分析してみればその論理的な必然性が明らかになる点に見出す。多元論や経験論をやっつけるとき、絶対主義が好んで使う方法は、一種の帰謬法である。多元論は、事物がある意味で連結されているが、ある意味で相互に独立で、すべてをつつみこむ単一の事実のメンバーではないというが、独立を認めれば、たくさんの独立を認めざるを得なくなり、ついにはまったくのカオスしか残らないことになり、部分間にはいかなる連結もありえないと批判する。一方、二つの間に少しでも関係を認めれば、すべての事物の絶対的な統一を認めるまで止められなくなる 。(訳44)
経験論者が、部分から全体に向かうとき、「存在者はまず第一に存在し、いわばそれ自身の存在だけによってたよって生きており、そうして第二次的にお互いに知られあうのかもしれない」とするが、しかし絶対主義の哲学者は、「存在するということが、知られるということから独立していることが 、認められるならば、宇宙は、救いようのないほどに解体されてしまうだろう」という(ロイスの証明の一つ)。例:猫と王さまの関係、猫と王の間→絶対者(訳49)。一元論は、「いたるところ」互いに含みあっている世界を肯定する。「環境をまったくもたず、すべての関係をその中につつみこんだ、統合的な絶対者」。第一者としての全体は、単に事実としてのみならず、論理的な必然性として存在しなければならない。(訳54)絶対的な全体があるか、絶対的に何もないかいずれかである。部分的に理性的で、部分的には非理性的であるという言い方は世界の記述として許せない。少しでも合理性があれば、世界はいたるところで理性的でなければならない。少しでも非合理性があるなら、その非合理性が世界全体をおおわなくてはいけない。世界は完全に理性的であるか、完全に非理性的であるかのいずれかでなくてはならない。(絶対主義は、すべての科学、真なる知識、経験が整合的な宇宙を前提しているとし、理性主義的な信仰のもと、感覚所与とその結合はつじつまのあわないものであり、それらの秩序のかわりに、概念の秩序を導きいれることによってのみ真理は発見できるとする。訳58)。
ジェイムズは、こうした議論のどこかに間違いがしのびこんでいるのではないかという疑問を抱かざるを得ないとするが、「むしろ、主知主義的な批判そのものをあらためるやり方の方に、解決があるのではなかろうか」という(訳59)。「感覚経験の流れそれ自身の中に合理性があるのがみすごされてきたのではなかろうか」という。「感覚経験のいうところにもっと素直に耳をかたむけること」、「私自身は、これこそが世界における合理性を保存する真の方法だと考えている」という。
ブラドリーは、複数の実在は不可能だとする。多なる個物は、関係づけられるのであり、統一をもちより大きな体系である全体へともたらさなくてはならない(AR, 1893, pp. 141-142.)。絶対的な独立か絶対的な相互依存かが唯一の選択になるが、個々の事件はみな、究極的には、すべての事件に関係しており、それが属する全体によって決定されている(リッチー)のであり、完全に一かたまりになっている宇宙か、まったくありえないかである。
ジェイムズ自身は、中間の道が好ましいと考える。(訳65)神と絶対者は違う(訳87)。神のライバルが絶対者であり、論理によっておしつけられないばかりか、ありそうもない仮説だとジェイムズはいう(訳88)。
「絶対者の概念が、宇宙の合理性についての我々の感情にもたらした最大の貢献は、宇宙の表面はどれ程みたされていようとも、その底ではすべてがうまくいっている―無限につづく混乱の中心に平和がやすらっているという確信であろう」(訳89)。この考え方は、理性的で、審美的にも美しいし、主知的にも美しいし、道徳的にも美しいが、実用的にはそれほど美しくはない。「世界のもっとも深い実在を、静的で歴史のないものとすることにより、世界が我々の共感をとらえる度合いを少なくし、世界の魂を我々にとってよそよそしいものとするからである。にもかかわらず、この考え方は、平和を与える。」(訳89)。「この種類の合理性は、非常に強く要求されているものなので、変化と努力にみちている有限な世界が永遠であるとみとめるよりは、静かで動かない永遠の方をえらぶような絶対主義者はいつになってもたえないであろうと思われる。ロイスはいう:「時間の中での我々の努力を通じて、時間の中にはありえない平和、永遠の中においてのみ、かつそこでは絶対的に、えられる平和を求めるのである。時間の中においてもとめることがなければ、永遠の中における平和もないであろう。」(The World and the Individual, vol. ii, pp. 385, 386, 409.)(訳90)絶対主義の批判。全体は部分を含み、我々も部分だが、部分は不完全で、絶対者は不完全。
ジェイムズの結論は、「絶対者の仮説は、ある種の宗教的な平和をもたらす点において、もっとも重要な合理化機能をいとなむけれども、知的な観点から決定的に非合理なものである。理想的に完全な全体とは、たしかに、その部分もまた完全な全体であるはずである……絶対者は理想的に完全な全体として定義されている。しかもその部分の、すべてとはいわないまでも、大部分が不完全なものとみとめられているのである。明らかにこの概念は、内的な整合性を欠いており、問題を解決してくれるよりはむしろ、問題を提出しているものである。」(訳97)
多元論的な形而上学では、悪が提出する問題は、実用的なものであって、思弁的なものではない。考慮すべき問題は、なぜ悪が存在するかではなく、いかにすれば現実の悪の量をへらすことができるのかである。普通人の宗教生活においては、「神」は、断じて事物全体の名前ではない。それは事物における理想的な傾向の名前にすぎず、彼の目的を実現するのに手をかしてくれと我々によびかけている超人的な人間として信じられているものである。この超人は、もしそれが価値あるものならば、我々の目的をもおしすすめてくれるのである。その神は有限であるが。(訳98)
要するに、絶対者は論理によって我々の信仰におしつけられたものではなく、それ固有の非合理な特徴をもっている。……仮説としては、絶対者は、そのあらゆる欠点にもかかわらず、その平和をもたらす力と形式的な壮大さのために、他のいかなるものよりも合理的であるかもしれない。しかし一方、時間の中を直線状にのびている、未完結の世界が絶対者のライバルなのである。実在は配分的なかたちで存在するかもしれない、それは、全体のかたちでではなく、見える通りの、各個の集合のかたちで存在するのかもしれない―これが反絶対主義的なかたちである。
「哲学においては、論理よりも情熱的なヴィジョンの方が重要なのだとすれば―私はそうだと信じている、論理はヴィジョンのあとからその根拠づけを見つけるだけである」(訳134)。哲学では、論理はそれほど大きな役割を演じず、ヴィジョンの優劣が、哲学の優劣の判定条件になることを積極的に示そうとした(訳263)。

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