中期~後期ホワイトヘッド

中期~後期ホワイトヘッド

前のページでは、誕生から前期にかけてのホワイトヘッドの伝記と思想的変遷を概説しました。このページでは、自然哲学・科学哲学に取り組んだ中期から、独自の宇宙論・形而上学を展開した後期までのホワイトヘッドについて解説します。

中期ホワイトヘッド
ホワイトヘッドは、1910年代後半から独自の自然哲学・科学哲学を展開します。古典物理学の基礎が瓦解し、非ユークリッド幾何学、相対論、量子論など新しい分野が登場する中で、我々の直接経験をもとに、科学の時間・空間・物質・エネルギーといった基本概念と枠組みを再構成しようとするのです。1919年には、最初の哲学的著作『自然認識の諸原理』を刊行したのち、その姉妹本『自然という概念』(1920年)や、アインシュタインの相対論の代替理論『相対性原理』(1922年)を刊行します。これらの著作で展開される哲学を一言でいうなら、生成する一度的な「出来事」を基盤にした自然哲学といえますが、詳しくは、「ホワイトヘッドの自然哲学」のページを参照してください。
一方で、ホワイトヘッド個人にとって、重大な事件が起きます。1918年3月、末子エリックが、第一次世界大戦に従軍中、飛行機が撃墜されて死亡するのです。ホワイトヘッドは、ひどく落ち込み、ラッセルの回想録には次のように記されています。「大戦末期に、ホワイトヘッドの18歳になったばかりの下の息子が戦死した。彼の悲嘆はあまりにも大きく、道徳的自制を極力発揮してかろうじて仕事を続けることができた。この愛児を失った傷みが彼の心を哲学に向け、単なる機械的宇宙の信奉から逃れる方法を求めさせた大きな要因である。」ホワイトヘッド自身ものちに、このときの心境を次のように振り返っています。「かの言葉の達人たち、英国の詩人たち[ワーズワースやシェリーなど]が、どれほど生き生きと苦悩を語り、慰めの努力をしてくれても、それは自分にとっては『現実の感情を陳腐なものにしているだけ』だった」。最初の哲学的著作『自然認識の諸原理』は、戦死したエリックに捧げられているばかりか、このことは、ホワイトヘッドの後期哲学にも、潜在的に影響を与え続けているといえるでしょう。
後期ホワイトヘッド
ロンドン大学を定年退官後、1924年に、63歳で米国のハーヴァード大学に哲学教授として招聘されます。1924年9月から哲学科で、初めて哲学の講義を担当し、ローウェル講義の講師も行っています。『科学と近代世界』が出版されるのは1925年ですが、その大部分は、この講義をもとに書かれています。ここで、注意すべきは、このローウェル講義をもとにして書かれた諸章と、出版時に加筆された諸章に、革新的な哲学的発展がみられることです。既にホワイトヘッドの専門家の間では常識になっていますが、『科学と近代世界』のテキストには複数の層があるのです。詳しくは、「ホワイトヘッドの形而上学」のページで解説します。
同様のことは、主著『過程と実在―宇宙論の試論』にもいえます。この書は、1929年に刊行されますが、その多くは、ギフォード講義をもとに書かれており、執筆時期の異なる、無数の層から構成されています。この点についても「ホワイトヘッドの形而上学」を参照して頂くとして、ここでは、この書をごく簡単に特徴づけるにとどめるのなら、それは、究極的に実在するものの形而上学的探究であり、また、あらゆる経験的事象を解釈しうる、整合的で論理的な体系を構築する試みであり、さらに、神と世界の動態的な展開を論じた哲学的神学の書ということができます。
哲学史上、最も難解な哲学書のひとつとして知られる『過程と実在』の内容は、「『過程と実在』注解」のページで解説するとして、ここでは、その後のホワイトヘッドの変遷について概要を記しておくならば、『過程と実在』以後にも、ホワイトヘッドの哲学は、さらなる発展を遂げています。1929年には『理性の機能』を、1933年には文明論や価値論を論じた『観念の冒険』を刊行しています。1937年、76歳でハーヴァード大学を退職しますが、1938年には『思考の諸様態』が刊行されていますし、その後も、1947年に「数学と善」や「不滅性」を含む『科学・哲学論集』が刊行されています。
米国マサチューセッツのケンブリッジで亡くなったのは、1947年12月30日のことでした(享年87歳)。本人の遺志により草稿などは廃棄されています。若い研究者たちが、どのようにホワイトヘッドが著作を生み出したかを説明するのに時間や労力を費やすよりも、自分たちの考えを追究するのに時間や創造的なエネルギーを費やすべきだと感じていたためだそうです。その後も、数々の哲学者・科学者・神学者に影響を与え続けています。

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