『心理学要論』

Psychology: Briefer Course(別名:Textbook of Psychology), 1892.
邦訳: ウィリアム・ジェームズ 『心理学』(上)、今田寛訳、岩波文庫、1992年。
ウィリアム・ジェームズ 『心理学』(下)、今田寛訳、岩波文庫、1993年。

上巻

目次
第1章 序章
第2章 感覚総論
第3章 視覚
第4章 聴覚
第5章 触角、温度感覚、筋肉感覚、痛覚
第6章 運動の感覚
第7章 脳の構造
第8章 脳の機能
第9章 神経活動の一般的条件
第10章 習慣
第11章 意識の流れ
第12章 自我
第13章 注意

下巻
第14章 概念
第15章 弁別
第16章 連合
第17章 時間の感
第18章 記憶
第19章 想像
第20章 知覚
第21章 空間の知覚
第22章 推理
第23章 意識と運動
第24章 情動
第25章 本能
第26章 意志
終章 心理学と哲学

上巻

目次

1.  『心理学原理要論』(以下、こちらのみを指す場合は『要論』と略記)を主題的に扱うことにする。大著『心理学原理』は、教科書の依頼を受けたジェイムズが執筆したものであるが、12年を費やして書いた1000ページを超える書物であった。その著作は、もともとは教科書のつもりで書かれたとはいえ、結果的には、当時の心理学だけではなく、その後の心理学の土台となるような多大な影響を与えた書物となった。『要論』はそれを要約したものであり、「序」では、「前のものよりも教科書として使いやすくする」ことが目的であると記されている。そのため、『原理』より『要論』の方が、簡明に叙述されており、「序」では、ジェイムズ自身、「私が『自然科学』の見地として採用した一般的見地がいっそう明確になった」と述べている。この言葉も示している通り、『心理学原理』は自然科学の一部門を意図して書かれている。

第1章 序章

2.      第一章の「序章」でジェイムズは、心理学を「意識状態のそのものの記述および説明」と定義するとともに、「本書では、心理学を一自然科学として取り扱うつもりである」と宣言する。ここでジェイムズにとって科学は、すべてを説明し尽くしてしまえるような、定冠詞付きの一つの体系ではない。そのような学が実現されたとすれば、むしろそれは哲学だろうという。科学は、「異なった場所で生じ、ただ実際上の便宜のためにお互い分かれ分かれになっている知識の端緒」を含むものであり、複数形で「sciences」と呼ばれるものである。
3.      『心理学原理』『要論』は、自然科学を意図して書かれたものであるが、このような境界線の引き方からは、科学と形而上学の違い、および形而上学そのものに関するジェイムズの考えが垣間見える。ジェイムズにとって、科学は、それぞれの専門的な個別分野領域を有する諸科学からなるものであり、「すべての科学は、一定のデータを疑うことなく受入れ、その意義と真理を吟味することを哲学の他の部分に委ねている」(22)。一例をあげれば、自然科学者は、自分たちの研究している対象が、それを知覚する心とは独立に存在することを当然のこととしているが、しかしどんな自然も、それが知られる以上は必ず、我々の心ないしは観念とは完全に独立ではありえない。我々の行き着くところは徹底的な観念論なのか、あるいは何らかの点で、我々の観念とは独立の実在性を自然はもつのか、こういった問題は、科学内部の問題ではなく、哲学の問題となる。このように、物理学は、原子や遠隔作用を無批判に受入れ、化学は物理学のすべてのデータを無批判に採用し、生理学は化学のデータを採用する。一つの自然科学としての心理学もまた、同様の部分的、暫定的な方法ですべてのことを取り扱う。自然科学とは異なり、心理学は特に「心理学固有のデータ」を許容するが、ともかく、自然科学の一部門として考えられる限り、データのさらに深い意義と真理を吟味することは、「さらに進歩した哲学の領域」に委ねられるという立場をジェイムズは表明している。⇒8へ。
4.      【「どのようにして一つの物が他の物を知り得るかということは、いわゆる認識論の問題であり、どのようにして「心の状態」というものが存在し得るのかということは、経験的心理学と区別して合理的心理学の問題であり、先の一つの体系と同様に、心の状態の完全な真理は、認識論と合理的心理学がすべてを語り尽くすまではわからない。だが、心の状態について多数の暫定的真理を収集することはできるのであり、ジェイムズはここで経験的心理学を志していた。そして、「心の状態、およびそれが経験する認識に関する暫定的知識体系こそが、私が一自然科学としての心理学と称するものである」という(23)。「適当な時が来れば、それがさらに大きな真理に織り込まれ、これによって解釈されるであろう」(23)ともいうように、ここにはジェイムズが、科学を前進的に進歩するが、完全な体系にはなりえず、むしろそうした体系の構築は、哲学の課題に属すると考えていたことが窺える。そして、本書では「人間の心のみ」に触れるという。(24)】
5.      【しかし形而上学に触れる。「過去の合理的心理学の大きな誤りは、霊魂を、固有の諸能力をもつ絶対的精神的実体として設定し、記憶、想像、推理、意志などの諸活動を、これらの諸活動が扱う外的世界の諸特質とほとんど関係なく、霊魂に固有の諸能力として説明したことであった。」(24)むしろジェイムズは、科学として、「心的事実はこれが認知する物的環境と切り離して研究することは適当でない」ことや、「順応adapt」すること、良い生存に向けた興味と興奮の喚起、恐怖と嫌悪、欲望、進化について論じる。そして「心と世界は一緒になって進化してきた」という。(25)心的生活は元来有目的的であるという信念が高まったように、われわれの様々な感じ方、考え方は、我々の外的世界に対する反応を形作る上に役立つから現在のようなものになったのである(25)。(目的論?事実というより、感じ方Formの進化?)心的生活と身体的生活の本質は一つである、すなわち「内的関係の外的関係に対する調節」というスペンサー一派の説は心理学に貢献した。心的生活は自己保存的活動のためであり、「順応」の悪い場合にはその所有者の滅亡さえも招くかも知れない。(26 cf. Alx)もっとも広義の心理学は、「順応している」場合と同様に無用なものも有害なものも、あらゆる種類の心的活動を研究すべきである=美学と精神医学。(28)意識は、用途があって進化してきた、その用途とは選択。(150)快は身体に有益な経験に伴い、苦は有害な経験に伴う。(150)スペンサーその他の人々は、予定調和ではなく、自然淘汰の結果に他ならないといい、有害な経験を快と感じる動物は絶滅する。(151)】
6.      【科学と形而上学、理性と信仰、合理性と非合理性のような問題意識は、『プラグマティズム』や『多元的宇宙』、『信じる意志』の第1章などにもあり、ジェイムズの根幹にあった。】
“7.      すべての心的状態は、何らかの身体的活動を伴う。有意的生活ほどでなくとも、呼吸や循環、筋肉の緊張などのような、目に見えない変化を引き起こす(26)。意志だけではなく、あらゆる心の状態、単なる考えや感じさえも、結果において運動的である。ただし、「意識の状態の直接の条件は大脳両半球における何らかの活動である」のであり、ジェイムズはこれを第一に研究する。生理学的な状態が心的活動に影響するように、「われわれの気分や決心などは、論理的根拠によってよりも血液循環の条件によって決まることが多い。人が英雄となるか臆病者になるかは、そのときの「神経」次第である」(27)。脳のある部分と失語症。「心的活動は常に脳の活動の完全な関数であって、脳の活動の変化に伴って変化し、脳の活動に対しては原因に対して結果の関係にあるという、単純で徹底した考え方が次第に芽生えている(現代の考え。しかし原因と結果の関係にあるのかは形而上学的問題であろう)。【科学の進歩と限界:意識状態の直接の条件としては大脳両半球の作用が強調されており、それがジェームズ心理学の一つの特徴をなしており、すなわちジェームズ心理学は、心的活動は常に脳の活動の関数であるとする生理心理学的作業仮説の上に立っているのだが(訳者解説)、「心的状態に関する知識は、これに伴う大脳の状態についてのわれわれの知識をはるかに上回っている」ため、心的状態は脳の状態によって完全に決まるという私の仮説(26―27ページ)は、いまでも単なる仮説としておかなければならない」という(169)。】無論、現代は発達しているが、心と生理学的な脳との関係性は問題である。

方法論:こうした考え方は「近年のすべての「生理学的心理学」の根底にある「作業仮説」であり、本書の作業仮説でもある」。(28)このようにいうと、部分的真理でしかないものを包括的な言い方をしていることになるかもしれないが、「仮説が不十分であることを確かめる唯一の方法は、目の前に現れるすべての場合にこれを真剣に適用してみることである。「仮説を「その仮説を適用する価値のあるすべてに対して」働かすことが、その不完全さを証明する本当の、そしてしばしば唯一の方法である」。したがって、出発的において、脳の状態と心の状態との間に一定の相関関係が存在するのは自然の法則であると仮定する。これは唯物論にみえるかもしれないが、「考えの生起は機械的法則の結果であると言うけれども―何故なら、さらに他の仮説、すなわち生理学の「作業仮説」によると、脳の活動の法則は根本においては機械的法則であるから―決して考えの本質まで機械的法則によるとは説明しない」。この点で唯物論ではない。 科学は一つの極端に行き過ぎたものを他のものが修正しつつジグザグに発達する。心理学は唯物論に進んでいるが、もう一度舵を切らなければならないと思っている人でも、まずこの方向で進ませてやるべき。心理学の諸説を、抽象的で不完全な「自然科学」という見地から研究することは必要である。しかし、哲学の全体系に取り込まれるときには、この暫定的見地から研究されたときに心理学の公式がもっているようにみえた意味は異なった意味をもつようになる。(29)

本書では、意識の状態をできるだけ神経的条件と関連づけて研究するつもりであり、神経系統は今日、個体や種族を保存させる反応を起こさせる機械だと考えられており、解剖学的には神経系統は、3つの部分に分けられている。刺激流の内部伝達、中枢器官、外部伝達。機能的には、感覚、中枢的思惟、運動。心理学的には、感覚、大脳作用あるいは知的作用、動作の傾向。(29-30)

「失語症。心的状態は脳の状態によって完全に決まるという私の仮説は、いまでも単なる仮説としておかなければならない。」(169)”
8.      さて、3→それらのデータとして、ジェイムズは、1.考えと感じ、あるいは変化する意識状態(動的なもの:のちに存在としての意識を否定し、機能とする)、2.これらの意識状態による他の事物についての知識を挙げる(22―23)。ここからもわかる通り、ジェイムズにとって「感じ」は、科学としての心理学の用語として挙げられているのだが、これがどのようにホワイトヘッドによって継承されたのか。ともかく、実際に、『心理学原理』内の「感じ」についてみるのが肝要である。

第2章 感覚総論

9.      『心理学原理』は、第一章の「序章」と終章の「心理学と哲学」において、本書の全体的な話や、心理学の方法について論じられているのを除いて、他の諸章では、「視覚」や「聴覚」、「脳の構造」や「脳の機能」、あるいは、「習慣」や「注意」、「概念」、「記憶」、「推理」といった、生理学および心理学に関する個々の主題・各論について論じられている。これらは、経験的事実を細部に渡って網羅的に記述し、20世紀以降の心理学の部門の基礎となるものである。とりわけ、「習慣」や「意識の流れ」、「自我」の諸章などは、その後の心理学に多大な影響を与えたのみならず、今日からみても、生理学・心理学のみならず、哲学にも、示唆を与えてくれる。しかし、これらの大部分は、当時としては画期的であったかもしれないが、今日からみれば、誤りを含み、取るに足らないものである。そのため、『心理学原理』の細部の記述は、科学としてみれば、既に過去の歴史上の古典といわざるをえない。だが、それにもかかわらず、その基底にある考えとして「感じ」だとか、「感覚」だとか、いわば科学あるいは心理学の形而上学的前提となっている部分は、上述した、科学と哲学の境界領域にまたがる部分として、極めて興味深い。ホワイトヘッドは、人類史上、影響をもった宇宙論として、プラトンの『ティマイオス』とニュートンの「一般的注解」を挙げ、後者は細部の記述に優れているが、前者は今日でも無尽蔵の示唆を含むと述べたが、このことは、ジェイムズの『心理学原理』における、実証的な科学の側面と、哲学ないしは形而上学の側面についてもいえるだろう。

第3章 視覚

10.   では、ジェイムズの感じ、およびそれを取り巻く科学的側面と形而上学的側面はどのように理解されるだろうか。まず、感じという用語は、上で挙げた、生理学・心理学の各章で用いられる。例えば、「求心性神経は通常は特定の力以外の力には感じない」(第二章「感覚総論」)とか、「寒さを感じない」とか、「閃光を感じる」とか、ジェイムズは、我々が通常用いる意味で「感じる」という言葉を使う。そのほか、「筋肉の感じ、熱の感じ、光の感じ、音の感じ」(46)、「色の感じ」(75)、「触の感じ」ともいう(100)し、「温度の感じ」(104)、「苦痛を感じる」(106)、「痛みの感じ」(108)、「運動の感覚」(112)、ともいう。ここでの「感じ」とは、感覚的経験に他ならず、原初的な経験であるといえるだろう。「感覚とは意識する際の最初のものである」(35)とジェイムズがいうときの、感覚的な経験は、そうした原初的な経験としての「感じ」であり、まさにホワイトヘッドが継承した用法もこうした「感じ」に他ならない(AI)。ジェイムズは、「このような直接の感覚は人生の最も初期の何日かに実現され得るだけであることは明らかであって、すでに獲得した記憶や豊富な連合をもっている成人にはまったく不可能である」と述べる(35)。純粋感覚:35、212、36。生後、ほとんど眠って過ごす人間の乳児は、感覚器官から強い音信を必要とし、この音信が純粋の感覚を引き起こし、この経験が脳回の実質に「見えない痕跡」を残し、次の印象は、前回の印象の痕跡が作用している反応を大脳に引き起こすのであり、その結果生じるものは、異なった種類の感じであり、より高次の認知であろう」という(35-36)。ここでは、事物についての「諸観念」が、単に感覚的に存在しているという意識と混合している。命名し、分類し、比較し、命題を述べ、意識は、人生の終わりに至るまでますます複雑さを増していく。このような高次な意識が知覚と呼ばれるのに対して、「事物が単に存在しているという言葉では表しにくい感じを、もしそのようなものがあり得るとすれば、それを感覚という。」我々は、注意が散漫になっているようなとき「ある程度までこのような言葉にならない感じを経験する」とされる(36)。「感覚し得る性質」ことが感覚の対象であり、例えば眼の感覚は事物の色彩を感じる(36)。ちなみに、事物の幾何学的性質、すなわち形、大きさ、距離などは純粋素朴な感覚を超えていると考えられている(37)。

第4章 聴覚
11.   だが、こうした「感じ」という言葉はいくつかの点で興味深い。第一にそれを考えるとき、その考えることは、上でジェイムズ自身が述べたように、もはや科学としての心理学そのものの対象ではないだろう。感じの用法を検討するときには、哲学の領域に足を踏み入れている。この意味で、感じの考察は、科学内部ではなく、科学を超えた問い、あるいは哲学の問いである。それは形而上学的である。第二に、感じは、感覚の経験に尽きるものではなく越え出ている。この言葉は、思考の感じといった具合に、思考についても使われるとともに、『宗教的経験の諸相』では、「宗教的経験」において感じという用語が使われ、そこでは実在の感じなどと使われているのである。気質的な感じとか、宇宙全体を感じるとか、『プラグマティズム』では使われる。『根本的経験論』でも使われる。

第5章 触角、温度感覚、筋肉感覚、痛覚
“12.   まず第一の点について、感じは、科学の形而上学的前提の上で考察されるべきである。例えば、感じは直接経験の事実であるとはどういうことなのか。ジェイムズは、感覚は、その対象あるいは内容が単純であり、対象は単純な性質であるから、等質的に感じられるといい、感覚の機能は、等質に見える事実を単に直接に知ることだというのに対して、知覚の機能は、事実に関して何かを知ることだというが、「事実そのものは、感覚が与えるところものである」という(37)。「最初の考えはほとんどすべて感覚的」であり、「最初の考えは事実そのもの、あるいはあれあれ、それそれというべきものを与える」という。「われわれは光を見るというより、むしろ我々は光そのものである。」(37)。その後の視覚的知識は、この経験が与えたものに関しての知識である(この点で、イギリス経験論的)。「乳児がそこに何かがあるという、ただ単にこれという意識(「そらっ!」)」(39)だと言う。上記(36)の引用文中では、「もしそのようなものがあり得るとすれば」と但し書きがある通り、単なる純粋感覚などあるかは大きな問題である。この点は、西田やブラドリーでも問題となっている。(「乳児の最も低い感覚の中に、ニュートンの頭脳の最高の功績と同じほどの知識の神秘がほとばしり出ている」:アプリオリを批判したイギリス経験論的)(40)。

獲得された習慣は、発射通路が新たなに形成された結果。自然の法則は、不変の習慣。(188)可塑性とは、外界の影響に屈するほどの弱さと、即座に屈してしまわないほどの強さを構造がもっていることを意味している。このような構造における比較的安定した均衡状態は、新習慣というべきものを示している。(189)「構造上の変化の発達は、無生物におけるよりも生物において早いことである。なぜかと言うと、生物は不断の栄養的新陳代謝が行われる場所であるから、・・・変化を強め、固定しようとする傾向があるからである。」(192―193)「習慣はわれわれの運動を単純化し、これを正確にし、かつ疲労を減少させる。」(193)「習慣は・・・必要な意識的注意を減ずる。」(194)a→b→c→と習慣化される。注意されない感覚。編み物の例。ヴァイオリンと本。注意に上がらない感じの過程。(197―199)”

第6章 運動の感覚

13. 第二の点について、実在について感じはどう関わるのか。あるいは、感じは一見して主観的な響きがあるが、実在論と観念論とどのように関わるのか。その背景には、ブラドリーの絶対的観念論の形而上学もあり、エリオットの研究もある。形而上学についていえば、科学と形而上学、理性と信仰、合理性と非合理性のような問題意識は、『プラグマティズム』や『多元的宇宙』、『信じる意志』の第1章などにもあり、ジェイムズの根幹にあった。例えば、ジェイムズは、「我々の通常の外的事物の感じ方は、その外的事物が印象を与える特定の末端器官が、たまたまどの脳回に結合しているかによって決まる」と論じ、例えば、日光や火を見るという経験は、物が放射する光の波動を取り上げられる末端器官が、視覚の中枢につながっていることによると考えるが、「もしわれわれが内部の結合を継ぎ替えることができれば、世界はまったく新しく感じられるであろう。」という。「例えば、もし視神経の末端を耳に継ぎ、聴神経の末端を眼に継ぎ合わせることができたならば、われわれは閃光を聞いて雷鳴を見、交響曲を見て指揮者の運動を聞くだろう。このような仮説は、観念論哲学の初学者にとってはよい頭の体操である!」といって、観念論を批判している(35)(共感覚)。つまり、ジェイムズは、我々の感じの経験と、実在的な事物としての諸神経が相関をもっていることを論じているのであり、実在論を提唱している。「感じられるすべての物あるいは性質は、外的空間の中において感じられる」とか「乳児が経験する最も初めの感覚は、彼にとっての外的宇宙である」(39)ともいう通り、感じは、外的なものを含んでいる。

第7章 脳の構造

意識が一つの意識であること。乳児に注ぎ込まれる無数の刺激流がその意識にもたらす対象は、一つの大きな途方もなく騒々しい混雑であり、その混雑が乳児の宇宙である(40)。閾値の法則、ウェーバーの法則、フェヒナーの法則(41~)。対比、色彩(54~、74~)。感覚の融合、調和と不調和、協和音、比率、音楽的調和(94~)。

第8章 脳の機能
第9章 神経活動の一般的条件
第10章 習慣
第11章 意識の流れ
第12章 自我
第13章 注意

下巻
第14章 概念
第15章 弁別
第16章 連合
第17章 時間の感
第18章 記憶
第19章 想像
第20章 知覚
第21章 空間の知覚
第22章 推理
第23章 意識と運動
第24章 情動
第25章 本能
第26章 意志
終章 心理学と哲学

319―320 形而上学という語の意味。自由意志。心理学はその科学的目的のためには決定論を要求する。考え直せばよい。心理学の決定論的仮定は単に暫定的かつ方法論的であるに過ぎない。特殊科学は、必要に応じてその仮定や結果を改訂すべき。公共の場forumが形而上学と呼ばれる。形而上学とは明晰に矛盾なく考えようとする非常に執拗な試みを意味しているに他ならない。(319)特殊科学は、不明瞭と矛盾に満ちたデータを扱っているが、欠点は見逃してもよい。細かすぎる議論は「形而上学的」であるとレッテルが貼られる。地質学者は時間を理解するに至らない、機械学者は動・反動がどのようにして可能になるのかを知る必要はない、心理学者は、自分と、心が、どのように同一外界を認めうるかを問わなくてもよい。目的とするところが、宇宙全体に対する最大限度可能な洞察をもつことだとすれば、形而上学的謎が緊急となる。
320 意識と脳の関係。心理学を自然科学として論じると、「心の状態」は経験に直接与えられたデータとして受け入れられ、脳全体の状態に「対応して」独自の心の状態があるという単なる経験的法則が作業仮説となる。「対応」という語の意味を問わない限りこれで十分である。対応という概念を、単なる並行的変化というより、、本質的なものに言い変えようとするなら漠然としたものになる。1. 心的状態と脳を「同一の実在」の内的・外的「側面」とする。2.一つの統一的存在、霊魂の「反応」であると考える。3.各個の脳細胞は別々に意識をもっており、経験的に与えられる心的状態は、小さな意識が一つに融合されて現れた。全細胞の集合によって「脳」そのものが現れる。(321)
321 一元説、霊魂説、原子説と呼ぶ。霊魂説が難点が論理的には最も少ないと思われるが、多重意識、多重人格等の事実に触れない。これらの現象は、原子説の方がうまくいく。なぜなら、一つの霊魂が、あるときには全体として反応し、あるときには連絡のない同時的反応に分裂する。多数の小意識があるときには一つの大集団となり、あるときには数個の小集団に結合すると考える方が容易。脳の機能の局在かも有利。
322―323 「対応」の問題の困難。進行の主体を知らなければならない。どのような種類の心的事実とどのような種類の大脳の事実が、直接的並列関係にあるかを知らなければならない。脳の事実に直接の存在の基礎をもつ最小の心的事実を見出さなければならない。心的対応物をもちうる最小の脳の出来事をも発見しなければならない。心的最小物と身体的最小物の間には直接の関係があるだろう。あるとすれば、これを表すのが精神-物理法則(psycho-physic law)。われわれの説は、全意識を心的方面の最小物、全脳を身体的方面の最小物と見なすことによって、心的原子という超経験的な仮定を逃れてきた。しかし、「全脳」といっても、身体的事実ではない。それは、無数の分子が感覚に影響を与える様子につけられた名称に過ぎない。粒子論、機械論の原理によれば、唯一の実在は、個々の分子、細胞のみ。これが集合して脳になるというのはフィクション。物理的事実。精神―物理法則があるとすれば、心的原子論mental-atom-theory。なぜなら、分子的事実は「脳」の要素なので、全体的意識ではなく、意識の要素に対応するから。(323)
324―325 心の状態とその「対象」の関係。知識は、ふつう、知者と被知者の関係。世界がまず存在し、心の状態がある。心の状態が世界を認識し、世界は完全なものになる。純粋感覚という心の状態、例えば、晴れた空を眺めて得るところの青の感覚を取り上げると、青は感覚を規定しているのか、その「対象」を規定しているのか。経験を感じの性質として記述するのか、性質の感じとして記述するのか。近頃は、「対象」の代わりに「内容」という曖昧な言葉が発明された。「内容」は感じを除いた何かを暗示するのでも、感じと同じものを暗示するのでもない。なぜなら感じは容れもの、容器として暗示され続ける。内容を除いた容器としての感じ?直接に与えられたままの青の経験は現象という中性の名称によってのみ呼べる。それは、心的―物的の二つの実在の間の関係として直接に映ずるものではない。二重になり二方向になる展開するのは、同一の青と考えながら、他の事物との関係をたどるときに始まる。ある連合体では物質的性質、他のでは、心の中での感じ(cf. 純粋経験論:形而上学が問題。センスデータか感じではない。生理学的事実と心的事実、科学と形而上学の境界を越える概念としての感じ)。
325 これに反して(?)、非感覚的・概念的心的状態(Concept?)は自己以外のものを示す。「内容」をもっているけど、それ以上に「辺縁」をもっていて、自己以外の何ものかを「代表する」。青。意味をもった語。青という性質は考えの対象、語はその内容。要するに、心的状態は感覚のように自己充足的ではなく、それが到達しようとする何かそれ以上のものを指示していた。しかし、感覚のように同一事実に対する異なる考え方のように見えた瞬間、心的状態は部分から構成されることを否定したことが正当化されにくくなる(=心的状態は一つであるのに、部分から構成されることを肯定するようにみえる)。青空は物質的には外部にある部分の総和。感覚の内容と考えた時このような総和ではないのはなぜか。
326 唯一の結論:被知者と知者の関係は無限に複雑。科学的な言い方は不十分。理解する唯一の道は形而上学的精妙さに入っていくこと。考えが事物を知るという自然科学的仮定が明らかになるためには、唯心論と認識論。 意識の変化性の難問。心理学の扱う単位は意識「状態」だと仮定し、変化しているといった。状態は、一定の持続時間がないといけない。現在とは?状態とは?
327―328 意識状態は確証できる事実ではない。常識も心理学も、この科学が研究する意識状態が経験の直接的データであることを疑わなかった。「物」、外の世界は疑われたが、考えと感じ、内の世界は疑われなかった。意識については内省的に知っていると考えているが、結論に確信はない。(cf. デカルトの方法的懐疑の結論。我思う。)考える作用を感じようとするとき捉えるものは、身体的事実。額などからくる印象(cf. SMWのデカルトとジェイムズの対比。Ich denkeは呼吸する。)内的作用としての意識は、感覚的に与えられた事実ではなく、必要条件として養成されるものpostulateであるように思われる。被知者に対するものとして知者を要する。sciousness(識)の方がConsciousnessより適当な語。仮説として要請されるシャスネス(哲学的?心理学的?)は、内的感じによって確実に感知された意識状態(経験科学的?生理的?)は違うもの。誰が真に知者であるかという先の問題(323?)。自我の章の終りの答えは暫定的叙述。
328 結論:「自然科学としての心理学」は堅固な心理学ではない。反対に、脆弱で、形而上学的批判にさらされる心理学。根本的仮説やデータを幅広く考え直し、翻訳しないといけない心理学。自身のなさ。分類と一般化、脳は心的状態の条件という先入見、等々はある。しかし、物理学のような法則はなく、因果的に結果を演繹できる命題もない。基本的法則があったとしても、何と何の法則かわからない。科学ではない。科学の期待でしかない。材料はある。脳の状態に一定のシャスネスが対応しているときに何か確実なものが起こる。その真相をうかがうことこそ真の科学的業績であって、過去の業績は顔色を失うであろう。(cf. ニュートン。Whは物理学の再構築、ニュートンを批判。ジェイムズは心理学におけるニュートンを待ち望んでいる。それは科学というより形而上学では? Whは物理学を越えて心を捉えようとしている。物と心、科学と形而上学の対立を越えられたか?科学という手法を越えて新しい手法を発明できたか?臨床形而上学?心理学における科学革命。ニュートンもアインシュタインも欠点を知っていた)。心理学は、ガリレオ・ニュートン以前の物理学、ラヴォアジェ・質量保存の法則以前の化学の状態にある。心理学におけるガリレオ、ラヴォアジェ。問題だけに、「形而上学的」になるであろう(Jamesの心理学から形而上学、そしてWhという路線で考えるのがよいのでは?科学と形而上学、世界と人間の心という二元論ではなく、それらを越えて統合するMeta形而上学=臨床形而上学)。出発点として自然科学の仮定は、暫定的で、改訂されるべき。

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