ローティ

ローティ
Richard Rorty, 1931-2007

[伝記]
1931年、ニューヨークに生まれる。49年にシカゴ大学を卒業後、56年にイエール大学で博士号を取得。プリンストン大学、ヴァージニア大学、スタンフォード大学で教授を務めた。

[概要]
ローティはジェイムズやデューイ、クワインなどの主張に対する、かれ自身の独自の解釈を展開している。いまや哲学は、真理をめざすすべての学問を基礎づけようとする「第一哲学」から「文化批評」へと、すなわち、人間のさまざまな言論活動の「長所や短所を比較する研究」へと「脱構築」されるべきことを説き、現代哲学に大きな影響を与えている。すなわち、これまで哲学は、知識の確実な基礎を求めて営まれてきたが、そのような認識論的な伝統は終焉したのであり、これから哲学は解釈学へと転換するべきであるとした。厳密な意味での真理の探究などという問題はもはや重要ではないのであり、むしろあらゆる言説を相対化するということに哲学の役割はあるのである。西洋哲学では、その潮流として2つの転回があったといわれている。①認識論的転回、②言語論的転回である。しかしながら、絶対的な意味での審理が存在しない以上、基礎づけ主義は不可能であり、無意味であると考えるローティは、哲学は「真理を獲得するための方法」ではなく、「人間の再記述」としての解釈学へと移行しなくてはならない。したがって、③解釈学的転回が必要なのである。
ローティはいう。「私たちが到達した相対主義のテーゼをくりかえせば、次のようになる。ある理論の対象が[絶対的な意味で]いかなるものであるか、についてのべることは無意味である。ただ、その理論をもう一つの理論のなかでいかに解釈もしくは再解釈するか、についてのべることだけが意味をもつのだ。」クワインが指摘したような、「指示の不可測性」、すなわち、ある文が絶対的な意味で真理であるかどうかはいえないのであるから、われわれに残されているのは、「解釈」という道しかない。(このようなローティの解釈学的な思考はガダマーの『真理と方法』の影響がある。)
そこでローティは、真理の発見ではなく、「会話」の継続を重視する。つまり、会話とは、異質な諸個人が異質性をたもちながらおこなう営みであって、ひとつの結論、あるいは一つの真理にたっすることを目的とはしない。われわれは、本質的に相手との相違点を見出したとしても、それについての合意や、説き伏せるといったことなしにも、その人と接しながら会話を続ける程度に関係を保つことができる。むしろ、そのような「会話」が継続できるということこそが重要なのであって、絶対的な真理をめぐって、「議論」するということは重要でないどころか無意味であり、むしろ有害ですらある。

魚津はローティのプラグマティズムの特徴を三つ挙げている。

1、反本質主義
真理、知識、道徳など、哲学理論の対象は本質を持たない。事実や世界について語った文について、それが真であるかを問うことは無意味であり、むしろ「もしその文が真であると信じたとすれば、どういうことになるのか、私はなににかかわることになるのか」と問うのが自然である。

2、事実と価値の区別の拒否
伝統的な哲学は、心を、自然をうつしだす鏡として捉えてきた。しかしながら、事実であろうが価値であろうが、私たちの心、認識活動は、それを正確にうつしだすはたらきではなく、「もしそうであるとすれば、なにをすべきか」という社会的実践として理解されるべきだ。

3、会話という制約以外には、探求には一切の制約がない
パースは、すべての探求者が究極において一致した意見が真理であるとした。しかし、いつでもそれには異議申し立てがありうる以上、そのような観念はありえない。従って、ローティによれば探究に際しては、何が真理であるかについて決定する必要がないので、会話の継続という条件のみが、探求の条件である。

従って、ローティの探究者の共同体は、もはやひとつの真理を求めるものではなく、偶然ある先人の文化(それは他の文化であったかもしれない)を引き継いだわれわれが、その中で、会話しながらつくっていくものであり、そのような共同体はそれによって、われわれの社会、われわれの政治的伝統、われわれの知的遺産といったものにたいする一体感を高めていくのである。しかし、どの共同体が真理であるわけでもないのだから、それらの価値は競合しない。むしろ大切なのは「事物を正しく把握するという希望ではなく、暗闇に向かってたがいに身をよせあって生きている他の人間たちへの誠実さである。結局のところ、プラグマティストたちが私たちにおしえるのはこのことである。」
こうしてローティにとって探究は、共同体内部での、あるいはほかの共同体との、会話の継続を意味する。しかし、ここで目指されているものは何だろうか。まず、われわれは、異文化、他人との会話において、歴史的な限定のもとにある自分(たち)の文化を中心に物事を判断する「自文化中心主義」から出発せざるを得ない。真理や合理性について、あらゆる文化に共通する客観的な基準などないのだから、最初は互いに自文化の基準をもちいて判断せざるを得ないのである。しかし、会話を重ねることによって、それらの信念や基準は変容していく。こうして、それぞれの文化の本質的な部分に抵触しないまま(無論それも変わりうる)に、しかし、会話という強制によらないゆるやかな合意や理解が、それぞれの文化の「連帯」を生む。これこそが、哲学が従来求めてきたカッコつきの真理にかわるものなのである。「プラグマティストたちがのぞんでいることは、客観性にたいする要求のかわりに、すなわち、自分たちと一体とみなしているなんらかの共同体をこえた実在をとらえたいという要求のかわりに、そうした共同体との連帯にたいする要求をおきかえることである。」
ローティにとって真理とは、普遍的で必然的なものではなく、ジェイムズのいうように「信念として持つとよいもの」である。従って、そのような意味での哲学を目指さない、「ポスト哲学」的な時代においては、あらゆる言論活動を、それをあるがままに表現させる文化が重要であって、そこでは哲学はもはや、それらを相互に比較研究する学問、すなわち「文化批評」のようなものになる。そうなると、もはや哲学は文学や芸術、科学と区別できないようなものになるのである。

[邦訳著作]
・『哲学と自然の鏡』野家啓一監訳、産業図書、1993年。
・『連帯と自由の哲学――二元論の幻想を超えて』冨田恭彦訳、岩波書店、1988年。
・『哲学の脱構築――プラグマティズムの帰結』室井尚・吉岡洋・加藤哲弘・浜日出夫・庁茂訳、御茶の水書房版、1985年。
・『偶然性・アイロニー・連帯――リベラル・ユートピアの可能性』齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳、岩波書店、2000年。
・『アメリカ未完のプロジェクト――20世紀アメリカにおける左翼思想』小澤照彦訳、晃洋書房、2000年。
・『リベラル・ユートピアという希望』須藤訓任・渡辺啓真訳、岩波書店、2002年。
・『文化政治としての哲学』冨田恭彦・戸田剛文訳、岩波書店、2011年。

(魚津、310頁―を参照。)

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