『真理と実在』

『真理と実在』
Essays on Truth and Reality

Chapter I Introductory
Chapter II Faith
Chapter III On Floating Ideas and The Imaginary
Chapter IV On Truth and Practice
Chapter V On Truth and Copying
 Chapter V. Appendix I. On The Ambiguity of Pragmatism
 Chapter V. Appendix II. On Professor James’s ‘Meaning of Truth’
 Chapter V. Appendix III. On Professor James’s ‘Radical Empiricism’
Chapter VI On Our Knowledge of Immediate Experience
Chapter VI. Appendix. Consciousness and Experience
Chapter VI. Supplementary Note
Chapter VII On Truth and Coherence
Chapter VIII Coherence and Contradiction
Chapter IX On Appearance, Error, and Contradiction
 Supplementary Note I.
 Supplementary Note II.
 Supplementary Note III.
Chapter X A Discussion of Some Problems in Connexion with Mr. Russell’s Doctrine
Chapter XI On Some Aspects of Truth
Chapter XII Some Remarks on Memory and Inference
Chapter XIII On Memory and Judgement
Chapter XIV What Is The Real Julius Caesar?
Chapter XV On God and The Absolute
 Supplementary Note A. On The Reality and Personality of God
 Supplementary Note B. On Our Fear of Death and Desire for Immortality
Chapter XVI On My Real World
Concluding Remarks

[概要](より詳しくは、吉田、2014年を参照)
・ホワイトヘッドが、科学だけでなく宗教をも一つの形而上学体系のうちで接合しようとしたのに対して、ブラドリーは、絶対者の形而上学と実践的な宗教を、統合的な見地から関係づけなかった。ブラドリーによれば、神は、宗教的意識の外部ではまったく意味をなさず、我々と神との実践的な関係こそが、宗教の問題となる。だが、完全である絶対者は関係をもちえない。もし絶対者と我々が何らかの関係をもつなら、そこには全体に対する関係があり、何らかの区別が存在することになってしまうからである。つまり、形而上学上の実在である絶対者と、実践的な宗教の対象としての神は区別されるのであって、ブラドリーにとって「絶対者は神ではない」(ETR 428)。むしろブラドリーは、整合性を要求していた形而上学とは異なり、宗教には矛盾や不整合を認める。宗教においては、観念や実践が、我々の宗教的な必要性に本当に応えるかどうかが試金石となるのであって、理論的な整合性がそれを満たすわけではないからである。この点、ブラドリーは、理論的整合性のような別の基準を外部から持ち込んで判断することは、誤りであり危険であると警告する。

・これに対してホワイトヘッドは、宗教が必然的に善であるわけではなく、時にその熱情性によって悪になると考えていたため、むしろ成熟した宗教は、合理的な形而上学の裏打ちを必要とすると考えていた。彼にとって形而上学は、単に経験的要素を解釈するためだけにとどまるのではなく、宗教的信仰ないしは教義の基礎を冷静な見地から批判する役目を担うものでもあった。合理的で普遍的な形而上学は、諸々の宗教批判に機能するとともに、そうした形而上学の絶え間ない追究は、単なる批判を超えて、我々の文明の将来を導く光となると彼は考えていたのである。

・世界と神が相互内在して歴史的に進展していくという説も、形而上学的思潮の中で形成されたことにより、必ずしも特定の宗教に依拠する必要なく、万人に開かれながら、現実を全体として捉えるヴィジョンとして働く。形而上学は、「眼前の事物の移りゆく流れの彼岸や背後や内奥にある何ものか、……移りゆくすべてのものに意味を与えながらも捕捉しがたい何ものか、……究極の理想であって終わりなく探求を続けなければならない何ものかのヴィジョン」(SMW 191f.)としての宗教を、時には批判しつつも支持するのである 。そのようなヴィジョンは、「それがなければ人生が、山なす苦痛と悲惨を照らす時折の喜びの閃光、儚い経験の些末な戯れに過ぎなくなってしまう」(SMW 192)という点で、我々の生きる意義として機能する。ホワイトヘッド形而上学は、科学と宗教を一つの合理的な図式に接合しながら、我々がそれによって生きられているところの意義そのものを与えようとしている。

[研究ノート]
各章についてのメモ。
Preface
Table of Contents
第1章 Introductory 本書のIntroductionとして1906年12月に書かれた章。
第2章 Faith 1911年3月のPhilosophical Reviewに初出の章。
第3章 On Floating Ideas and the Imaginary 1908年4月のMindに初出の章。
第4章 On Truth and Practice 1904年7月のMind(N. S., No. 51)で出版された論文の大部分を含む章。Paperは、1903年の初夏に書かれた。
第5章 On Truth and Copying 1907年4月のMindに初出の章。
第5章補遺 I. On the Ambiguity of Pragmatism 1908年4月のMindに初出。
第5章補遺 II. On Professor James’s ‘Meaning of Truth’ 1911年7月のMindに初出。
第5章補遺 III. On Professor James’s ‘Radical Empiricism’ ?
第6章 On our Knowledge of Immediate Experience 1909年1月のMindに初出。
第6章補遺 Consciousness and Experience
第7章 On Truth and Coherence
第8章 Coherence and Contradiction
第9章 On Appearance, Error, and Contradiction
Supplementary Note I
Supplementary Note II
Supplementary Note III
第10章 A Discussion of Some Problems in Connexion with Mr. Russell’s Doctrine
第11章 On Some Aspects of Truth
第12章 Some Remarks on Memory and Inference
第13章 On Memory and Judgement
第14章 What is the Real Julius Caesar?”「ほんもののジュリアス・シーザーとは何か」
冒頭部でラッセルの1911年「直知による知識と記述による知識」を批判。
(この論文は1914年に出版された論文集に収録されるかたちではじめて刊行されたが、おそらくもう少し早く書かれていたのだろう。1911年のラッセルの論文に「最近の」という形容が付されているから。)”
第15章 On God and the Absolute
Supplementary Note A On the Reality and Personality of God
Supplementary Note B On our Fear of Death and Desire for Immortality
第16章 On my Real World
Concluding Remarks
Index

Essays on Truth and Reality
-Preface
Mindの諸論文から本書は構成される。Philosophical Reviewの論文、出版されたことのない、いくつかの論文を加えた。3つを除いて、最近5、6年のうちに書かれたもの。
・タイトルが、中身の主題と目的を示す。不完全性と未完結性。
・プラグマティズムについて多くの紙数を割こうとはしなかった。「根本的経験論」を読めなかったのは残念。
・形而上学研究。英国の哲学的思想。

-Table of Contents
-Chapter I Introductory
p.1
本書のIntroductionとして1906年12月に書かれた章。
人生のあらゆる側面は、つまるところ、善(the Good)に従属しているのかもしれない。善を広義に理解するなら。人生の至るところで、なぜWhyという問いを問うように強いられるように思える。その探求への答えは、満足(contentment)の事実と、不満(不安定unrest)の欠如あるいは抑制に見出されると思われる。善である限り、それを越えて存立しうるものは、世界にはない。

真理とは何か。知性を満足させるもの。矛盾と無意味は真であり損なう。満足させないので。それらは、不安(落ち着かなさuneasiness)と不満(不安定unrest)を生み出す。他方、この不安定を満たされることに変えるのは、真理である。知性が善を見出したところが善であるといっていいかも。

p.2
善性という究極的な性質。満足させる限り、それを超えた可能な訴えはない。それ自身において十全に満足させるものに抗する合理的な要求は何もない。ある種の充足(satisfaction)の追究。単なる楽しみ、好みの出来事、道徳的、宗教的な確信と好みの事柄、さらに美的な知覚や風味の事柄、何であれ、同じものを、ある点において見出す。安定(rest)と満足(contentment)を与える限り、それは善性をもっている。

p.3
完全な善はないという古い経験。善性は、我々が最初に置こうとする場所には、本当はない。完全に充足satifyさせるものは、人生にはない。我々の人生は様々な主だった側面があり、一々の側面においてでさえ、よりよいものや超えるものを望むようにdesireに導かれる。人生のあらゆる事柄は不完全でありimperfect、それ自身を超えて、それ自身の絶対的な充溢fulfilmentを探し求める。結局のところ、従属的であり、善に従属しているといっていいかも。
善は充足satisfaction、充足は善。しかし、「ここに満足がある、これが、他の一切が従属する至上の善だ」ということは、受入れられない。

p.4
そのような議論は、言及した間違いを例証する。というのも、まず、見出されたものは、完全には善ではない。第二に、これを超えて、充足や善が見出される、人生の他の側面がある。完全な善は各々に宿るが、各々には、善は、不完全に現存する。それゆえ、何ものも至上ではない。他方、我々は、全体として我々の本性を経験し、感じることができ、そして、この全体に抗って、人生のいかなる一つの側面の不十全性inadequacyを自覚できる。これがために、我々の全存在を、それの諸相の一つと同一視できない。
我々の真理は、実在の十全な所有ではないと確信できる。美的達成や喜びを越えた目的があることを知りうる。社会や家族の中での生活を越えた価値のなにか。
制限されていない善性を所有するものはなく、それゆえ、他の一切が従属しうる、それらの一つのものはない。
人生の様々な諸相を考察し、それぞれに内在する不完全性を示そうと思う。

p.5~10
生は一つの瞬間や単一のFeelingにくみ尽くされない。
すべてが善に従うなら、善は一つの至高の実在でなければならない。快以外に実在的なものはなくなる。
実践的活動。実践。
善は宗教において、完全な善であり、至高の実在。非実在とは受け取りえない。
本当に満足させるものは、単なるプロセスではない。プロセスに入る一方で、それを越えてもいる目的の実現である。(p.7)

p.10
生のあらゆる側面が善性をもっていて、善を実現することをみてきた。そして、他方、どの諸相も、それ自身では善性をもっておらず、どれも至上ではないことを見てきた。我々の本性の様々な側面が、結び付いているようにみえ、多かれ少なかれ、この結び付きはどこでもそれ自身を示す。しかし、この結び付きに関して、完全な真理は、我々の把握のうちにないように思える。それゆえ、我々の存在の主要な側面は、相対的な独立性をもっているように認められなければならない。それ自身の領域内でのあらゆる側面は、ある意味で至上であり、外部からの指図(命令)に対抗するときに正当化される。しかし、哲学以外ではここでは展開しない。
哲学の至上性は、様々な面から断罪されるが、道徳性と宗教のために(を代表して、代わって)なされる攻撃に集中する。実践の要求は、生の全体に適用されるだろうし、哲学の場合に善を保たないといけない。

p.11-12
哲学は知的満足、言い換えれば、究極的真理を目指す。それは、実在の所有を得ようと求めるが、理想的形態においてに過ぎない。それゆえ、それは、我々の存在の実現であるが、我々の存在の一面である。我々の本性の様々な側面のうち、どれも至上ではなく、それら自身の限界内で各々は、相対的至上性をもっていることをみてきた。
真の哲学は、健全な道徳や宗教と衝突するとは思わない。真の哲学は、行い(行動conduct)に要求される要請と矛盾しない。

p.13
哲学においては、絶対的充足satisfactionを求めてはいけない。哲学はせいぜいのところ、その対象の理解に過ぎない。それは、その対象が全体として含まれ、所有される経験ではない。哲学、宗教。崇拝者。芸術やその他と同じこと。実際的な信。

p.14
真の哲学は、人間本性のあらゆる面、それ自身も含め、を受入れ、正当化しなければならない。

p.15
哲学者、芸術家。哲学は、他のもののように、それ自身の仕事をもっていて、限界があり、それ自身の仕事で自身の仕事を進むように認められねばならない。それ自身の限界以外では、それは、至上性を訴えられず、限界の外でなければ、いかなる命令も受け入れられないし、受け入れてはいけない。

-第2章 Faith
-第3章 On Floating Ideas and the Imaginary
-第4章 On Truth and Practice
-第5章 On Truth and Copying
-第5章補遺 I. On the Ambiguity of Pragmatism
-第5章補遺 II. On Professor James’s ‘Meaning of Truth’
-第5章補遺 III. On Professor James’s ‘Radical Empiricism’
-第6章 On our Knowledge of Immediate Experience
-第6章補遺 Consciousness and Experience
-第7章 On Truth and Coherence
-第8章 Coherence and Contradiction
-第9章 On Appearance, Error, and Contradiction
-Supplementary Note I
-Supplementary Note II
-Supplementary Note III
-第10章 A Discussion of Some Problems in Connexion with Mr. Russell’s Doctrine
-第11章 On Some Aspects of Truth
-第12章 Some Remarks on Memory and Inference
-第13章 On Memory and Judgement
-第14章 What is the Real Julius Caesar?
-第15章 On God and the Absolute
-Supplementary Note A On the Reality and Personality of God
-Supplementary Note B On our Fear of Death and Desire for Immortality
-第16章 On my Real World
-Concluding Remarks
-Index

[参考文献]
L. B. McHenry, Whitehead and Bradley: A Comparative Analysis, SUNY Press, 1992.
G. J. Warnock, English Philosophy Since 1900, Oxford University Press, 1969.
吉田幸司 「ホワイトヘッド形而上学の意義―F.H.ブラドリーおよびW.ジェイムズと比較して―」『理想―特集:ホワイトヘッド』No.693、理想社、2014年。

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